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「学校行事」と「体育の授業」の問題点について

 「学校行事」には様々な問題があり、例えば「合唱コンクール」については、人前に立つことがまず苦痛であり、人前で声を出すことはさらに苦痛であると感じる人がいるであろう。しかも仕方なく参加しているにも関わらず、口パクをしたりすれば責められたりもするわけであり、全くもって酷である。「運動会」にしても、運動が苦手あるいは嫌いな人にとっては、限りなく苦痛であり、辛い行為をさせられた上で、晒し者・笑い者にされてしまう。組体操は他人との身体的接触もなされるわけで、これもまた不快に感じられる人もいるであろう。大縄などは特に責任重大で、自分がミスをしたことによって「いじめ」の原因になる可能性が高いであろう。「文化祭」もまた、全く興味のないくだらないことのために、共同作業をさせられ、何の得もなく働かされる奴隷になり、見世物をすることを強要されたりするわけで、これもまた不快だと感じる人がいるのは当然だ。これらはもはや拷問だとしか考えられないような人もおそらく少なくないだろう。にも関わらず、おおよそ拒否する権利は与えられておらず、もし拒否できたとしても、今度はそれがいじめの原因になってしまうわけで、全くもって逃げ場のない状況である。劣悪な類の学校であれば特にその傾向は顕著だろう。
 「体育の授業」にしても、「個人競技」の場合は、体育が苦手な人が露骨に晒し者・笑い者にされてしまい、いじめの原因をつくってしまいがちであるし、毎回の授業で恥を晒し続けることを強要されるというのは全くもって拷問でしかないと思っている人も多いであろう。「集団競技」の場合も、誰かがミスをした際、特にそれが直接的な原因となって負けた場合には、その人が責められがちであり、特に「個人競技」とは違って「集団競技」の場合は「迷惑をかけた」として、より一層「いじめ」の原因をつくりやすくなるであろう。例えば、ソフトボール、バスケットボール、バレーボール、サッカーなどはそうであろうし、ドッヂボールは特に、いじめられている人が真っ先に標的になったりして、それ自体がいじめの現場になってしまう場合もある。「集団競技」というのは誰もが平等で全く同じことをするわけではなく「チーム戦」であり「勝ち」「負け」がつくことになるため、当然「勝ち」の方がいいと考えることになるわけで、年齢が低ければその傾向も強いであろう。そのため、当然「仲間外れ」になる人も出てくるわけで、これはいくら教師が綺麗事を言ったところで解決する問題ではないのである。
 「学校行事」にしろ「体育の授業」にしろ、それを不快だと考える人達のことを一切考えておらず、教師もまたそれらを楽しむことを強要したりするばかりである。これは間接的に「いじめ」を容認しているとさえ言えるであろう。「学校行事」は廃止すればよいわけであるし、「体育の授業」にしても、徹底的に個人のプライバシーを守ることができないのであれば廃止すべきであろう。「集団生活」に慣れるためだとして「教育」の観点からそれらを擁護する人も少なくないが、それは全くもって傲慢であり、人の生き方に干渉して当然だという面持ちで、人間を洗脳し、コントロールしようとする、極めて悪質な態度である。しかも、彼らはろくに「いじめ」の解決法を提示しない。別に「集団生活」と一切縁がなく暮らす人がいても、それは個人の自由であろう。もしかしたら彼らはくだらない俗悪な人間達の群れの中で空気を読みながら生きていくしかないのかもしれないが、それを学生に強要して満足するのはやめてもらいたいものである。