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どこにも「絶対」はないという「真実」

人って感情で動くものであって、その感情を動かす要因も違う。
女性だから、金が発生するから、色々あるけれど。
どうあれ、第一印象だけで判断している以上は、
本当にその相手が何を狙いとしているのか、どういう正義感なのか、はわからないね。
自分が接する相手は総じて、自分に近いけれど、もしかしたら自分より暗いのかもしれない、
憎しみを抱えているのかもしれない、と思う人ばかり。
それは勿論、共感するから関わっているわけであって、
その範囲に収まる人に対しては、基本的にどこまでも優しいと自負している。
ただその範囲というのは、とことん狭い。
自分に好意を抱いている人に対しては、とことん気を遣うとしても、
嫌いだという人に対しては、とことん言い返すし理由も聞く。
ハッキリとそこは憎んでいく。主張していく。
自分自身が正しいのかどうか、っていうのは、結局のところ、
絶対的なルールがないからこそ、言えるものではない。
俯瞰して世の中を見ることが出来て、合理的な判断を出来る、
ということがあるにしても、
俯瞰して世の中を見ることが出来ているのか、も、
それ自体が俯瞰しているのか、も、俯瞰することが正しいのか、も、
すべて、自分から見える周りの意見でしかない。
臨機応変に、というのは、それこそ、
その人の人生において、最も良い選択肢を、ということなんだろうね。
でもこれは、他人が何を言っても、全くもって無駄な話。
相手にとって臨機応変な対応というのが、
自分にとってはそうでないかもしれないし、逆もある。
誰かの犠牲になることを、
勇気ある行動だ、という人も居れば、
これまた、愚かだ、という人もいる。
どうあれ、犠牲になる時点で少なくとも勇気ある行動には決まっていると思うけれど、
その後の、家族を考える考えないとか、その助ける相手が自殺を志願していたか、等、
色々と言う人がいる。
美談にすると今後もこういうことが続くだとか、続かないだとか。
ここでさらに、意見の食い違いによって、
世の中に出てないからとか、ひきこもりだからとか、ニートだからとか、
そういう議論にもなったりする。
ただハッキリ言って、その言ってる人が何者であるかなんて、
何の根拠もないのに、先入観で決めつけている、
つまりは無意識下の差別があった、という事実はハッキリする。
性格の歪みだとかを非難する側が、
差別をしている、という事自体が、そもそもお門違いだと思う。
知ってる範囲で言えば、
人の生死よりも自分の都合を優先するのは、
常に急いでいる会社員のほうが目立っている。
誰々が死んだせいで電車が遅れた云々。
そのせいでタクシーに乗っていかなければいけなかった、だとか。
あげく、そいつに賠償請求するから覚悟しとけなどと語りまで始めたりする。
もしこれが一般人だと言うのならば、
そもそもその一般というのは、間違いであるべきではないのだろうか?
自分勝手なのは、本当にその、ひきこもりだと言うのだろうか?
何を持って自分勝手なのか、という前提の問題だと思う。
日本人は総じて、他人との関わりは希薄である印象が強く、
閉塞感に満ちあふれているにもかかわらず、
監視社会の色が強く、あいつはどうだ、とか、周りがどうだ、とか、
結局、周りからの平均で自分自身を決定づける人が多い。
そして、それがまるで正しいかのように言い張る奴もいる。
ハッキリとここは、どこにも正義がないという事実をわかった上で、
誰ともすべてをわかりあえることはないという事を、
心の奥底で持っていて欲しい。
自由があるなしでそういうところは決まっていったり、
そうではなく、その自由ゆえに自分の辛さを感じていたり、
それ以外のパターンとして、他の真実を模索していたり。
全く自由はないけれど、自分勝手ではなくて、他人を優先したり、
そうではなくて、自分のみが正義の中心だと考えていたり。
それ以外のパターンとして、他の真実を模索していたり。
要するに、どこも、2、3通りなどではなくて、
人間一人一人、それぞれが全く違うんだろうなと思う。
そこで近いものが共鳴し、仲間だと言ったりして。
深いところで同じであるのに、表だけを見ると真逆で、敬遠していたり、
表だけを見て同じだと思ったら、深いところが全くもって真逆だったり。
どこか嘘をつき続け、相手との意見の違いをごまかし合いながら、
自分がこれから先最も平穏であるだろうと予想できるような、
臨機応変な選択肢を選び続けていくことだろうね。
そうは言っても、それはあくまで自分が見た世界であり人間であり、
もしかしたら他の人から見たら全く違って見えていたりする。
好き嫌いもそう。実際、見えているものだって、本当はそれが全員にとって、
そうであるという証拠はない。
あくまで、自分が与えられた情報において、
その人や物は、そういう形に見えて、そういう性格であると感じられるだけであるかもしれない。
そして何よりハッキリしているのは、
周りも自分と同じ意見だ、と思って居ても、
それは少数派か多数派かはともあれ、
全員にはあてはまらないということだ。
自分もそう、相手もそう、周りを見渡してもそう、
でもそうでない人は確実にいる、思った以上にいる。
そして、自分だけだ、と思って居ても、
似たような人は、少なからずいる。
ただそれを発見出来るかどうか、の問題だ。
もう、19歳くらいまでには、倫理観はその人にとって確固たるものになっている。
その後基本的にどういう事があろうとも、
相手に合わせているという前提を元にして、
今の感情をコントロールしているんだと思う。
少なくとも自分は思う。
だから、相手に納得してもらおうと思っても、基本的には無理だ。
何か大きな出来事があったときには、もしかしたらその前提は覆されたりするのかもしれないけれど。
ただ、それも確実ではない。
ただ確実なのは、どこにも、どんなものにも、確実、というものはないという事だけだ。
何も信じられない。
ただ、その信じられないという意見自体も信じられないと思うからこそ、
人は信じ合うのかもしれない。
どうあれ、一筋縄で相手を語る事はできない。
明るい、暗い、優しい、怖い、恐ろしい、他にもあるかもしれない。
そこに善悪を求めることも、過去との兼ね合いで、そうなる必然も、
責任の所在がどこにあるのかさえも、
もはや、人間の歴史がここまで来てしまって、わからなくなってしまった。
いつからか戦いが起こり、いつからか復讐が起こり、
自分が許せばそこで終わる、と思いながら、
どこかで爆発して再燃する。
自分自身をいくら客観的に、俯瞰して見ようとも、
人は最後は、自分の感情を絶対的なものとして、行動する。
だから、永遠に続くものというのがない。
その時に在った、という事実だけが、永遠に真実として残り続ける。
かつて在ったはずの何かがいつの間にか失われていた。
いや、以前はあったんだろうか?
過去はただ美化されるだけかもしれない。
でも、憎しみが残り続けているということは、
それが過去の一端であった事は間違いない。
今はもう関わりもない奴らに対する、過去の憎しみ、を晴らすという正義を持ってして、
自分は、そして、決して多くない、この世界のどこかにいる、
似た存在の仲間たちは、行動し、悩み、苦しみ、自分なりの結論を出していく。
永遠に続く思春期は、そうして、自分の生きる目的でありながらも、
生きている限りずっと背負い続けなければならない、負の財産として在り続ける。
真っ当に生きる、とは何なのだろうか?
本当にこの世界に、真っ当というものがあるのだろうか?
きっとどこにもそんなものはない。
だからこそ、自分に理解出来ないことを他人が平気でする。
そして、それを理解しない自分は、
それを発信する限り、どこかの誰かに批判され続ける。
意見が発生した理由も聞かぬまま、
そうであった、結果を批判する。
それが、社会的に不利益であると、一般的に定められていることであれば、
身体まで拘束されたりする。時に死刑になることもある。
今はそこまで強く意識させられる事は多くはなくとも、昔はこの点は、もっとハッキリしていた。
正義の味方、とは何なのだろうか。
悪は確かにあるのだろうけれど、当事者はそれを、正義だと思って行動している。
神が、悪魔が、これも、結局のところ、人それぞれの意見であると思って居る。
信じれば、救われるのだろうか?
本当にその証拠はあるのだろうか?
そもそも神というのは、恐れる存在であって、優しい存在でもない。
供え物をよこせ、そうすりゃ助けるか、考えてやるよ、という、
ある意味で無責任野郎なんじゃないのかと思う。
救われる、とは何なのだろうか?
その辺、しっかり説明出来る人がいるならば、
今度こそは、信じる事だろうね。
そして、悪魔がなぜ、悪、つまりはもう一つの正義なのか。
それが悪いのか、善のほうが悪だと思って居る物に近いと、
自分自身で疑うということはないのだろうか?
出来る事なら、
一度、武力行使なしで、神と悪魔で、語り合ってもらいたいもんだと思う。
冷静に、何がお互い悪かったのか。
ただ自分では予想がつく。
勝った方が正義で、負けたほうが悪なんだ、と。
であれば、一生悪は存在し続けて、今の正義はいつしか悪になる。
信じれば救われる、という。
救われるのは、現世であってほしいものだ。
優しさを与えたら優しさが返ってくる。
それならば、今後こそ、優しさに溢れる世界になるのではないだろうか?
でもそれも、個人個人の利益がゆえにまた争いにはなりそうだ。
いくら便利になろうと、クローン技術が発達しようと、
この世の中に性別がある限り、恋愛感情というのがある限りは、
戦は起こり続ける。
一つしかないものを、奪うために戦はある。
守るために戦い、奪うために戦い。
優れた能力を持つ子孫を残すためだ、など、
それこそ俯瞰して、正しいなどと見ている人もいるけれど、
自分から言わせりゃ、そんな仕組みをつくった奴は間抜けだ。
そして、何の遊びだ、などと思う。
3次元の人間が、二次元、などと騒いだりして、
世界をつくることがあるように、
もしかしたら三次元というのも、作り手があるのではないだろうか。
そして基本的にその作り手というのが、神、ということになっているらしい。
であれば、信じる、とは何だろうか?
作り手を信じろ、と言えば、ハッピーエンドは作られるのだろうか?
そもそもその作り手は、そこまで優秀なのだろうか?
永遠に作りかけでありながら、出来たと言いつつも、
なぜか理不尽さを演出させておくほどの存在だとは考えられないだろうか?
こういう話を言い出したらキリがないだろうけれど、それだけ、
この議論は続いていく。
一貫していたことは、どこにも「絶対」はないという「真実」。
それ自体を語っては、本当はいけないのかもしれないけれど、
言葉にしないとわからないものもあるんだという自分の考えから、
そのまま、思っていることを言えばこうなる。
もしかしたら、絶対はあるのかもしれないけれど、
自分からは見ることは今は少なくとも出来そうにない。
すべて物事はつながっていて、今ある当たり前の何かも、
本元を辿れば、抽象的な何かに収束することだろうね。
という感じで、ひたすら突き進む語り。
多分、実際に会ってもこんな感じで語るので、
話を終わらせないと思えばずっと終わらせない自信がある。
久々にサプリメントを飲まないといけないからこの辺だね。