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僕は救世主になりたいとずっと願っていた。生きづらい、選択肢の限られた世界で、自分の過去から導かれた、破滅的な生き方。全員が平等に幸せになること、それは不幸でないという、無という選択なのか。滅亡は、衰退は。それは幸せと言えるだろうか。少なくとも、生まれた時点ですでに、人間は皆、いつかある死を受け入れなければならない。そう思うと、人を怨まずにいられるだろうか。そう簡単な話でもない。結論は出るのだろうか。

誰もが幸せになる時というのは、やっぱり人類が滅亡したときだと思う。

なぜなら、全員が欲望を、感情を中心にして生きていて、

全員が「自分が一番大切で正しい」と思っているからだ。

自分は昔いじめられていたからこそ、

自分と同じような感情を抱いた人を救いたいと思っていたし、

今もそう思っている。

ただ、そこにも必ず、愛されたいという裏がある。

愛されるということは打算であるとも言える。

そしてそこから生きる糧へと、生き延びる方法を模索しなければ、

自分という存在は生きていけないということも考えれば、

明らかにそこに自分に与えられたチャンスを見つけ出しているとしか言えない。

ボランティアは、出来ない。

自分はその辺にたまにいる特異な学生のように、

ボランティアによって自分の心を満たすようなことは出来ないわけだ。

それに、ハッキリ言って、自分自身それどころではない。

いつ死ぬか、それを常に模索しながら生きている。

ここを見ている方なら、

株式会社 青空鑑賞会 や、 ひきこもりニート合同会社 というのを知っていると思う。

少なくともその文字を目にはしていると思う。

それらがどういう会社なのか知っている人はいるだろうか。

多分、いない。

強いて言うなら、何もしていない、というのを言い当てるくらいだろう。

準備中なのかな、くらいの認識かもしれない。

正直なところ、憎しみを語るために、目立つためだけにつくった会社だ。

それも2社も。

これについては、それこそ自殺行為でもある。

なぜなら、社長という名ばかりのひきこもりニートは、

現にひきこもりニートだからである。

自分はハッキリ言って、人生は長くないと思っている。

ダメそうなら死ぬ。

死ぬときに伝説でありたいから、会社にした。

ハッキリ言って、そういう目的だ。

たまに会社を凄いと思う人がいるけれど、

圧倒的に自分は捨て身なだけだ。

これもハッキリ言って、魔法使いがいるわけでもないので、

長くは続かない。

ハッキリ言ってしまえば、会社を維持するために生きるようなものだ。

これは明らかに会社の奴隷でしかない。

社員はいない。

請負契約で何かをしているわけでもない。

ハッキリ言って、事業を開始すらしていないわけだ。

これは大問題だ。

弁護士を始めたと言って事務所を開設したけれど、

依頼する人は誰も来ない。

それでも出勤し続けるという人生。

一人しかいない事務所で、ただひたすら何かを待ち続け。

いつしかエロい妄想をすることが仕事になっていたり。

それくらい大問題だ。

依頼自体を待つようなネタもない以上、

全く依頼がないとしても弁護士よりカッコはつかない。

そもそも、そういう状況の弁護士だって、

親の力がなければ終わる。

それが人生なのか、弁護士なのかはさておき。

自分自身その辺の感情がわかる。

昔ずっといじめられてきたからこそ、

世界を支配したかった。

形だけでも支配したい、

主張だってあった。

だから会社という形をとった。

やることなんてその後考えればいい、と。

それは、ある意味で自分の人生を縮めることであるかもしれない。

それか、環境が変わって何だかんだで行動的になったりして、

本当に違ってくるかもしれない。

その辺はやってみないとわからない。

けれど、自分は後悔しているけれど、

これも運命として生かしていかなければいけないなとも思う。

青空鑑賞会で何があったかと言えば、

ハッキリ言って、色々と失敗を経験し、

ビジョンを明確にしろなどと批判されるくらいであった。

それでも、自分の主張が、

会社という形をとって、一度立ち止まり、

見てみようという気にさせたならそれでよかったと思う。

でも、そのために無駄に失った物は多種にわたり多かった。

リスクはあるが、リターンは何もなかったと思う。

自分の中での発信欲求を少しだけ満たしたくらいかもしれない。

そこで、終わらせるとなれば死ぬ、ということになるけれど、

死ぬわけにはいかないから生きていくしかない。

なら、ひきこもりであるわけにもいかない。

なぜなら、親は魔法使いでもなく、

神も助けてはくれないからだ。

神というのはいるんだろうか。

こういう状況になっているとき、

自分には数少ない、チャンスがまたある。

もしこのチャンスがなくなったとき、

本当に自分は死ぬことになるだろう。

自分は確かに不幸だ。

でも、幸せなんだろうな、と思う。

いじめられてきた、大学にも入れなかった。

精神に異常を起こした。

なぜか上京した。

ここで必ずスポンサーがいた。

それは祖母であり母であり。

応援してくれる人がいるからこそ、

自分は今ここに生きているのかもしれない。

そしてここで、そういう美談で終わらせる気は無い。

何を言いたかったのかといえば、

自分は賭けて、ダメなら死ぬ、しかないが、

社会と関わりの深いもののうちで、

確実に、生き延びることが出来る手段は限られている。

たとえば自分はもう切羽詰まっているくらいの貧困であるなら。

何が出来るかといえば、結局勉強は出来るというプライドを抱えているだけで、

高校を中退したから中卒でしかない。

真っ当な生き方をした上でのものでもないから、

その辺の不良のようにアクティブなものも出来ない。

かと言って知的労働もなかなか難しいだろう。

学歴という先入観が付きまとうからだ。

今から大学に行くにしても、学費との兼ね合いもある。

そこまで負担が増えたときには、これはもう払えない可能性が高い。

家庭教師でも出来なければ、確実に終わる。

そして、授業にも出なければいけないだろうけれど、

色々考えた結果、自由はない。

その状況に満足出来るなら、今はもう大学にいることだろう。

そういう、地道なものは出来ない。

そして体力もない、長い時間勤務というのも辛いとなれば、

残されているものは、投資か、情報系販売くらいのものだ。

あと物がつくれるならそれは売れるだろうけれど。

勿論その他に、独自性があるものが売れるならそれはそれだ。

もしその時点でそうでないなら、

まず生き延びるために残されているものは、

高単価、短時間のものだ。

(勿論情報系販売もそれには当たるが、それを除く)

だとすれば、所謂自分を売るものしかない。

精神的に安定していなくて、出来る物も少ない。

そんな中で、メイド等とは違いコミュニケーションをそこまで問われず、

ある程度個人のメンタルを重視してくれるものとなればそうなる。

自分はこれまでホストも1日で辞めた。

会員制ゲイバーの体験入店にも何度か行ったけれど、

結局その場の雰囲気や、状況に押されて断っている。

けれど、いざとなったらそれくらいしか、本来なら選択肢はなかったはずだ。

そんな中で、自分が生きているのは、助けてくれる人がいるからでしかない。

それにあたるのは勿論親になる。

とは言っても魔法使いではないし、両親は離婚している。

そんな状況にある中で、捨て身で会社をつくって、

さらに追い込まれて。強いていうなら崖っぷちでもある。

それでも何とか生きているのは、自分の死に際の要領であり、

ギリギリのところでの機転の利かせ方かもしれない。

母親からは、「本来なら死んでいる」と認定された。

まさしくその通りでもある。

自分にとってのラストチャンスは、今だ。

自分の数少ない、ネットで交流する友人達と同じく、

死ぬか、活路を見つけるか、の時点。

活路は、発見した。

それが出来なれば、自分は終わりだ。

伝説の死を体現するために伏線を張ることが精一杯だろう。

そこで自分の命は終わる。

思えば、自尊心、復讐心のせいで、あらゆるものを捨ててきた気がする。

彼女もいない。

友達だって会う友達はいない。

強いて言うなら、人と最近は話していない。

人と心を交わす体験が、ほとんどなくなっている。

そう居られる事が、ある人からすれば幸せで、自分からすれば不幸で。

なぜなら、自分だって「普通の幸せ」を手に入れたいからだ。

自分には「普通の生き方」が出来ない。

死ぬか生きるかを常に選択させられるような人生以外に歩めない気がする。

長くは生きないことだろう。

その長さは、自分がどういう結果を残すかによる。

もしかしたら彼女でも出来たら、

普通の生き方も出来るかも知れない。

けれど、現時点でその機会はほとんど与えられていない。

二次元の世界のように、

曲がり角で急いでる女の子にぶつかることもない。

それによく考えれば学生でもない。

学生時代だって、彼女どころか女性に触れることはなかったと思う。

コンビニに行ったときに、お釣りをもらうときに女性の手に触れたか。

その時は本当にひきこもりで、数ヶ月ぶりくらいに同人音声の料金を払うときだったと思う。

つまりDL site の支払いの時だったと思う。

という昔の話も挟んだが、状況そのものはその時とあまり変わっていない。

永遠の浪人生のようになっている。そこからニートに移行したけれど、

ニートと語りたくなくて会社をつくって社長という名目を手に入れた。

失った物は、それより遙かに多かったと思う。

うまく生きられない、自分の精神。

かつて僕は、自殺する人が誰もいなくなることを願って、

それを実現出来る事をしたい、と思って上京する、と言った。

それでいて、振り返ってみれば色々とあったようななかったような。

自分から潰したような、ある意味では可能性を広げたような。

どうあれ、自分は自殺を本気で考えていた。

考えさせられていた、と言うべきかもしれない。

そして、誰かを殺そうとも考えたりした。

勿論無差別ではいけない、

昔いじめた奴でなければいけないという意志は強い。

けれど、すべてがもうどうにでもなればいいと、破滅的な精神状態になっている。

それでも、どうあれ、昔誰かを救いたいという心を持っていた自分が、

自分自身が全く満たされないために、

誰かを殺したいという精神状態になっていることを見ても、

人間に確実なものはないんだろう、と思う。

人の心は常に移り変わる。

その中でも、自分の過去を正義として、

それを元に人を、重要であったり、そうでなかったり。

他には打算をもってして考える。

そこから分かるとおり、

誰もがわかり合えることは決してないんだろうなと思う。

すべての人の生活が満たされるようになることはないかもしれないけれど、

たとえそれが出来るようになっても、

今度は恋愛における争いが激化するだろう。

その時に、クローンの技術が発達していて、

人間がたくさん複製されるような事態になっていても、

そのクローンの元になる存在であったりだとか、

量産されればされるで、一人一人の存在が希薄になるとかどうであるとか。

問題は永遠に尽きない気がする。

いつしか全員が所謂クローンになるときもあるのかもしれない。ならないかもしれない。

承認欲求も、満たされることはない気がする。

全員が平等ならまず、何も取り合うことはないはずだ。

すべてがすべて均等に分配されるということは、現時点で考えにくい。

どうあれ、永遠に、全員がすべての欲求を満たせるときは一生来ない気がする。

確実にいつになっても争いはあるんだろうと思うし、

争いがなくなり全くすべてが満たされるようになっても、

必ずどこかで、争いというものは起こる。

闘争本能というものが人間に備わっている以上、何もなくてもなぜか争うし、

そもそも、平等であることはない。

神という存在が本当に形として居たとしても、

現時点でその神という存在は、この世界をそこまで合理的につくってはいない。

理不尽に満ちあふれている。

であるならば、全員に平等が訪れるというのはいつなのか。

それは、人類が滅亡するときだ。

衰退であっても構わないけれど、それはどこかで盛り返すような気がする。

どうあれ、自分と同じ、人間という存在が、すべて幸せになるというのは、

いつになるかといえば、滅亡するとき、なんだと思う。

思い返せば、上京してから最初のころ、

秋葉原UDXの2階に座っている人に話しかけては、

この事をひたすら言い放っていたなと思う。

カップル批判をメモ帳に書きながら。

傘を振り回したりしながら。

端から見れば異常な人であっただろう。

けれどその時話したような結論というのは、

未だに疑う余地もないほどに、正しいと思っている。

つまりは代替策がないと思ったのだ。

かつて、誰も死なない、世界平和、を願っていた。

けれど、世界平和のために必要なのは、

全員が居なくなる、つまり死ぬことなんだと思った。

滅亡ではなくて衰退が好ましい。

この件について話すと、まず自分が死ねば良いという話をされる。

それはすべての人類を救ってから言って欲しい。

そして、ここにおいて、死にたくはないという人のほうが圧倒的に多いのも明らかだ。

滅亡させるということは、不幸を圧倒的に増やすことでもある。

全員が平等に平和であることを実現するために、

人類は滅亡しなければいけない、と言い出したら、

結局不幸があってから、平和がある。

最後の人類が自分でありたい。

自分が平和をもたらしたんだ。

と思いながら自分の命を終わらせる夢を、

ある時期、見ていた。

確か、色々なシーンがあった。

決して、幸せと言える状況ではなかった気がする。

夢の中で、僕は泣いていた。

ここで改めて出た結論がある。

それは、人類をこれ以上誕生させないことだ。

それこそが衰退への道。

でもその場合であっても、

結局最後は夢の中と同じように、自分から死んでいってしまう人が多いのかもしれない。

そう考えると悲しくなった。

永遠に人間は、次の世代へ、幸せなように見える、

終わりが確約された道を受け継がせていく。

それはどこに生まれるかにもよる、親が誰かにもよって、

幸せの度合いも変わるだろう。

けれど、

人間は生まれたときから、

死ぬという運命を背負っている。

次の瞬間生きている保障もない中で、

老後もあるだろう、だとか、平然と明日が続くかのように思っている。

誰にもその保障はない。

人は誰しも、いつかある死を前提にして今を生きている。

そこにおいてだけは、平等であり、

他にどこにも、平等である概念はありはしない。

平等のように見えて、そこに至るまでの不平等さがあることは確実だ。

誰しも、いつか死があるという事こそが、

人間というものを愛して、怨まずにいられる、最後の概念であるかもしれない。

けれどそれを自覚するのは、まだまだ先かも知れないし、

一生ないかもしれない。

何を思っても、彼女がいる人を、愛されている人を、僕はうらやむ。

他にも言い出せばきりが無いが、それは人それぞれにある。

永遠に争いを続けるしかない、そういう人間というものをいとおしいと思う達観した姿勢が、

もしかしたら人間を怨まずにいられる、最後の概念であるかもしれない。

最後の概念って何だ。

永遠にそれは続いていく。

人間という存在を怨まずにいられる、最後の概念。

それは一生続いていくのかもしれない。

だから人間という存在を怨まずにいられる、のだろうか。

わからない。

どういう結論を出すべきなんだろうか。