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救いと答え

人は人を、相対的にしか見ていない。
誰が大変か、誰が幸せか。
結局は、自分を基準にして考えるしかないのは確かだ。
死にたいと言えば、
生きたくても生きられない人がいるんだから、とわかりきったように言う奴がいる。
生きたいと言えば、
生きていて何の意味があるんだろうか、と自問自答し続ける事になる。
何を持ってして、人は幸せだと言えるのだろうか。
何を目的にして、人は生きればいいのだろうか。
そもそも、幸せだから生きるという事自体も疑問ではある。
ただそんな事を言ったならば、
平和な日本に居ながら何を言う、という人ばかりなのは予想がつく。
けれど、それならば、人はこれからも、嫌な事はなかった事にして、
すべての過去を忘れ、今ここに居るという幸せを感じて、生きていくしかないのだろうか。
誰かが、死にたいと言ったときに、何と言葉を返すべきなのだろうか。
自分自身が常に考えていながらも、自分自身も未だに答えの出せないもの。
目の前の誰かのリアルにおいては、決して意味のない言葉を思いつく自分自身に、
ただひたすらに、自分の無力さを、傲慢さを、感じる。
誰かを救おうと思ったら、その誰かを苦しめているかもしれない。
救おうと思った自分自身も、救われてはいないという実感。
でも、相互理解とはそういうものであるのかもしれない。
自分も相手もわからない事が、また続いていく。
誰も答えを強要してはいけない。
変えようなどとも思ってもいけない、批判もする権利はないと思う。
なぜなら、その答えは、自分自身が、本当に、何度も考えた上で、そうだと決めた答えだから。