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「オタク」=「バカ」と認識させる「新型オタク」

 まず、アニメもライトノベルも、「バカ」にも理解されるようなものが増えて大衆化したとともに、その「バカ」の存在がくだらない物語を要請していると言えるだろう。例えばハーレム系、日常系(その中でも百合系)のアニメ・ライトノベルが量産され、売れ続けているのである。
 具体的には、ハーレム系であれば、一切努力せずとも無気力に日常を過ごしているだけで女の子が群がってくるなどという現実離れした内容であるし、日常系であれば、現実世界では避けられない人間関係のドロドロ感が一切排除されたり、敵味方や正義と悪の関係性が明確であったりする。その中の百合系については、男の主人公さえ見ることなく、女のキャラクターだけを見ていられるというものである。
 これらは「物語」としての価値は一切ないと言っても過言ではないのだが、目的が明確である以上、結局はそのような物が売れやすいのだろう。結果的にそれらはどんどん深夜アニメ化されたりなどして、多くの人に観られている。
 またそれらがメジャー化したことにより、人気アニメに多く出演する声優は必然的に影響力を持つようになり、声優自身が様々なメディアに出演したり、CDをリリースして「歌手」になったり、更にはアニメの設定においてつくられたユニットの声優が実際にキャラクターのコスプレをしてライブで歌ったりもしている。そして声優にも関わらず写真集まで出されたりもしている。
 それ自体も驚きなのだが、それがビジネスとして成立しているところが異常なのである。無意味とも言えるサービスを常に享受したり、商品を大量に購入したりなど、バカとしか思えない人が多くなりすぎてしまっている。しかもその評価基準は実に曖昧である。一部のファンが空気をつくり、それにいかに巻き込むかによって、過度に評価されることも可能である。
 歴は長いが、特に可愛くもない声優(声も特に可愛いとは言えない)に対して、「世界一可愛い」だとか、その声優の「王国」のようなものもフィクションとして設定され、ファンの間ではそれが現実のものとして想定され、それを前提として振る舞うことを要請され、その声優による「王国民」に対する煽動が続いていく。
 一方、評価としては「可愛い」と言える人についても、結局売れるかどうかは「運」のようである。大事なことは、ある程度多くのアニメに出演し、その途中でいかにファンを上手く煽動できるかである。顔が大事とも言いきれない、声が大事とも言いきれないのである。結局一番大事なのが「マーケティング」だという事実は軽く受け流していいものではないだろう。彼らは果たしてアニメに何を求めているのか、声優に何を求めているのか。
 また、物語の補完、別の可能性を考察するという意味での二次創作自体はダメとは言えないが、ただひたすらにキャラクターを性的対象として見て、性器が露出した同人誌が売れたりしているのも問題である。ストーリーを踏まえた上で、それがその人の実存の上で深い意味を持っているのであれば、それはもはや別のリアルとも言えるのだが、ただ「可愛い」とか「エロい」とかクソみたいなことを言っている奴には失望せざるを得ない。
 その他にも関連するものとして、初音ミクを中心とした「ボーカロイド」についても見過ごせないのは、その「ボーカロイド」自体の機能よりもむしろそこから派生した二次創作の流行である。それ自体の物語は何もなかったはずであるにもかかわらず、様々な物語が集団的・匿名的につくられるという奇妙な状況がある。(これは勿論今に始まったことではなく「デ・ジ・キャラット」などもそうであったわけだが。)しかも、ボーカロイドを利用して曲の歌詞自体においてボーカロイド自身の実存について考察したり語ったりしているものもある。つまり誰かがボーカロイドを操るのではなく、ボーカロイド自身が自らについて歌っている「設定」なのである。このように、流行したのは「ボーカロイド」というよりもむしろその「キャラクター」であると言える。
 結果的に様々な曲がボーカロイドによって誕生したことになるが、それら全てをまとめあげているのは結局のところ「ボーカロイド」という機能ではなく、初音ミクなどの「キャラクター」である。
ボーカロイドを利用した曲はあくまで「二次創作的」に振る舞うことを、程度の差はあれ根底では要請されていると言えるだろう。ボーカロイドを使った時点で(初音ミクなどの)キャラクターがつきまとい、それを前提とせざるを得なくなってしまうのである。
 また、話が少しズレるが、俗にいう「アキバ系」などについても、未だに勘違いしている人が多いため言っておきたい。今の秋葉原駅付近でも電気街口は確かにアニメ色が強いことはわかるのだが、カップルも沢山いるし、ビジネス街だから当然なのだが、主に歩いているのはサラリーマンである。そして、中央改札口付近や昭和通り口付近となれば、一切アニメ色はなくなる。中央改札口付近では居酒屋のキャッチがしつこいし、昭和通り口となれば今度はキャバクラのキャッチがしつこい。現実的には「アキバ」というのはその程度のものなのである。今も聖地のように考えている人はそれが現実ではないことを理解した方がいいだろう。
 その他にも似た話をすれば、オタ芸などと言われる変なダンスが一時期流行だったが、今となってはほとんどないようだし、あるとしてもそれはもう意図的に目立ちたいがためにやっているだけで、オタクでもなんでもない。オタクのフリをしたリア充の間違いである。
 さて、色々と話したが、勿論アニメの中にも内容的に魅力のあるものは沢山あるし、そこにいわゆる人気声優が決まって出ていたりすることも事実かもしれないが、「物語」としてアニメを享受しているなら何の問題もないし、ライトノベルなどは、独自の設定を活かしていて、非常に興味深い内容のものもある。アニメにしろライトノベルにしろ、それ自体が悪いわけではないのである。
 自分がとりわけ問題視しているのは、世間一般的にあの中身の無いハーレム物のライトノベルを好んで読んだり、流行の人気声優のCDを買ったり、アニメに出てくるユニットのライブに行ったり、ボーカロイドをまるで人間のように考えたりして、勝手に妄想したりして、ボーカロイドという性質を無視して、初音ミクという「キャラクター」に対して可愛いなどと言ったりしている人がとてつもなく増えて、彼ら自身が「オタク」を名乗ることにより、それが一般的な「オタク」像を形成していることである。つまり「オタク」=「バカ」だと認識されかねないのである。さて、この「バカ」のことを「新型オタク」とでも言っておきたい。
 
 日々の生活が思うようにならず、人間関係もうまく構築できなかったりして、先行き不安で常にストレスに囲まれている現代人が、何も考えなくてもよかったり、平和ボケした内容のアニメ・ライトノベルに異様なまでに縋りつくことになっているのかもしれないが、彼らはただアニメを垂れ流したりライトノベルを流し読みしているだけであって、決してかつての「おたく」のような知的誠実性も魅力もない。その辺に普通にいる「バカ」のことを今は「オタク」と呼んで、特別視したり、嘲笑したりしているのである。
 こういう点ではもはや、二重の意味で誤解していると言えるだろう。つまり、「オタク」と自称している奴らがただの「リア充」であったり、モテないと言いながらも主流のアニメを見て自称「オタク」コミュニティ内で馴れ合って「自分たちはモテないよな」などと言いながらも、その内部で恋愛をしたりしている場合もあるのである。そして、そのような奴らに対して「あいつらオタクだよな」などと嘲笑しているのである。「オタク」と言えるかどうかわからない奴が「オタク」として嘲笑されるという滑稽な仕組みが出来上がりつつある。そしてどちらも「ニコニコ動画」を見ていたなどという滑稽な事態が起こったりしているのである。果たして「オタク」とは何なのか、国民総オタク化したのか。
 かつての「(ひらがな)おたく」や、まだまともだった頃の「(カタカナ)オタク」は、こうした奇妙な「新型オタク」の出現によって違った形で理解されてしまったと言える。昔は似たようにカテゴライズされていた人は、もっと物事を深く考える能力があったのではないかと思うのである。