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「想像の共同体」から逃れられない人間という存在。

 よく「Aのために〜せよ」や「〜だからAを許すな」という主張や「自分達Aは〜である」などという言説がある。もしこのAが特定個人であるならば話は別だが、抽象的な集団を指しているとすれば、それは紛れもなく「想像の共同体」(ベネディクト・アンダーソン)である。
 例えば「日本人」が「日本人」である確証はあるのだろうか。そして、何をもって「日本人」と呼ぶのだろうか。人それぞれ答えは異なるはずである。ネット右翼はよく「日本人」を強調して、在日韓国・朝鮮人に対してヘイトスピーチを行ったりするのだが、おそらく彼ら自身も厳密に「日本人」を定義できていないだろう。「ナショナリズム」や「ナショナリティ」は、その概念がまず開発され、それを強調しようとする人や集団によって続いてきたに過ぎないのだから当然のことである。「日本」という国に生まれ「日本語」を主に使用して生活しているから「日本人」なんだろう、という予測くらいしか成立し得ない。
 それでは「ネット右翼」はどういう思考回路から彼らの活動を行うのかと考えてみれば、(「ネット右翼」という「想像の共同体」を一概に論じることは難しいのだが)おそらく彼らの大半は、現状に不満を持っているか、「想像の共同体」の実態が「赤の他人」や「ただの妄想」である事実に耐えられないがために、厳密に定義するのが難しいにも関わらず「日本人」という「想像の共同体」を盲信し、過度な陰謀論などによって「在日韓国・朝鮮人」を「悪」に設定することによって、その「悪」を倒そうとする動きの中で「共同体意識」を持ちたいのであろう。身も蓋もない言い方をすれば「孤独だから集団をつくりたい」という、それだけなのかもしれない。(勿論、何らかの「崇高な目的」を持っている人も中にはいるだろう。)
 そのような「ネット右翼」に対して、自らが一般的に「日本人」であるにもかかわらず反発する人もいるが、彼らもまた「在日韓国・朝鮮人」という「想像の共同体」にコミットした上で反発していると言えるだろう。自らが「在日韓国・朝鮮人」であるように感じられ、不快な思いをしたというのであれば、「自分が」不快な思いをしたからという、直接的な理由付けも可能になるのだが、そうではなく、彼らが差別されていて、それを止めなければならないという使命感を感じているとしたら、ここにも「想像の共同体」という大前提が存在しているのである。
 勿論「想像の共同体」というのはそれだけではなく、よく言及されるものだけでも「ジェンダー」「階級」「宗教」などもあるだろう。直接的に自分と関わりがない場合には、いずれも何らかの「想像の共同体」にコミットした上で意見の対立があるはずだ。
 これはまた厄介なことに多くの人間は特に意識せずとも日常生活で無意識的に「想像の共同体」論を適用してしまうのである。オリンピックで「日本人」選手が活躍すれば、特に知り合いでもないにも関わらずなぜか大喜びする「日本人」が数多く存在する。その他にも「特定のスポーツのファン」だとか「球団/団体/選手のファン」であったり、自分達が「リア充/非リア充」であるとか「2ちゃんねらー」であるかどうか、その中でも自分達が「なんJ(なんでも実況J(ジュピター)板)民」「嫌儲(ニュース速報(嫌儲))民」「VIP(ニュース速報(VIP))PER」であるかなども「想像の共同体」を意識してそれにコミットした上でしか成立し得ない表現である。
 さらに厄介なことに、これらには勝手に「イメージ」が付与され、憶測が飛び交っていくのである。「在日韓国・朝鮮人」を「悪」に仕立て上げる「ネット右翼」などは、「在日韓国・朝鮮人」であるというだけで「悪い」奴だと決めつけてしまう。また、特定の球団のファンの一部が迷惑行為を行ったりすると、ファン全体を「想像の共同体」として同一視するかもしれない。誰もが書き込める掲示板にも関わらず、どこの掲示板の住人はどういう性格か、などと語られたりするのも同様である。
 そのような厄介な概念にも関わらず、「想像の共同体」を完全に排除しようとすれば今度は「独自言語」を使って自給自足で生きていくしかなくなってくる。「日本」に住む「日本語使用者」ならば、同じく「日本語使用者だと思われる人」に対してひとまずそれなりに通じる「日本語」を投げかけて、返答もまた「日本語」であることを期待するしかない。そうでなければ一切コミュニケーションが成立しなくなるだろう。また、いくら世界市民的な思想であったとしても、そもそも「人間」と「他の動物」を区別することは「人間」ならば誰しもが要請される。(場所によるが)魚を釣って食べることは問題ないとしても、(こちらも場合によるが)人を殺して食べることは法律上の問題が生じてくる。そうである以上「人間」は生まれた瞬間から「人間」という「想像の共同体」を信じることを強制されているといえるだろう。
 「想像の共同体」というように一応は「共同体」という言葉が含まれているにしても、実際のところは「赤の他人」であり、実際に関わりがない以上、身も蓋もない表現をすれば「ゴミの集団」とも言えるだろう。例えば「日本人」にとってであっても、その辺に歩いている見ず知らずの同じく「日本人」は、あくまで「ゴミの集団」でしかないともいえるのである。その一方で別の「想像の共同体」にコミットし、なぜか先ほどは「ゴミ」だと思っていた存在に対して今度は「共同体意識」を持ったりすることもあれば、都合よく「例外」をつくり出さざるを得なくなることもある。その辺に歩いている見ず知らずの人達は全員「ゴミ」だが、ネット住民は「仲間」のように感じられるという人もいるかもしれない。しかしながら画面の前にいるのはどちらも同じく「人間」である。「ネット右翼」は普段「在日韓国・朝鮮人」に対して「ヘイトスピーチ」などを行っているわけだが、あるとき「在日韓国・朝鮮人」に恋をしたとしたら、果たしてその人の前でも「ヘイトスピーチ」を行えるだろうか。「想像の共同体」を前に「人間」は常に中途半端で曖昧な姿勢を要請されているといえるだろう。