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「自分教」について

 どんな「宗教」を信じていようと、結局は自分がそれをどう解釈するかの問題があり、程度の差はあっても全て「自分教」に変換されることになる。
 同じ「宗教」においても解釈の違いによって争いが起こり、自分と似たような解釈をしている人を「仲間」、それと相容れない解釈をしている人を「敵」と認識したりするのも、そういった事情があるからであろう。どのような解釈をするのか、どのような解釈を認めるのかを自分が決めるというのだから、まさしく「自分教」という呼び方にふさわしいものであろう。
 また、先入観によって「宗教」という存在自体を嫌う人にしても、何らかの思想や社会的風土が「宗教の否定」という「宗教」として機能した結果としてそのように考えるようになったのであり、結局はそれも「宗教」を信じていることになる。そして、同様にこれも「自分教」へと変換されているわけである。
 そして、そもそもほとんどの人は五感を通じて自分に伝わってくる情報はまさしくそのようなものであるという前提や、自分は自分であるという前提を信じて生きているわけであって、それらもまた「宗教」の一つであり、「自分教」であると考えられる。
 そうした事情を踏まえれば、全人類が「自分教」を信じているということにさえなるのではないだろうか。