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働くということについて

世間一般における「働く」は経済活動のことである

世間一般において「働く」というと、その結果として収入を得るということが含まれている。つまり、経済活動のことを「働く」と呼んでいるのである。無償の場合には「ボランティア」であり、それは「働く」とは呼ばれない。何のために働くか、働く目的は何であるか、といった問いに対して、社会貢献であるとか、自らが成長するためであるといって、いかにもお金以外に何か崇高な意義があるかのように答える人は少なくない。しかし、「働く」ということが「収入を得る」という側面から切り離すことができない以上、いくら綺麗事を言って正当化しても、収入のために、お金のために働くという以外の答えはあり得ないのである。

働くことは「社会貢献」にはならない

経済活動を行って、サービスの対価としてお金を受け取るという事情が変わらない以上、働くことによって社会貢献は出来ない。無償で行い、かつ宣伝・売名といった目的がない場合に限って、ようやく社会貢献と呼ぶに値する行為である。つまり、世間一般で言われるところの「働く」という行為は、いずれも社会貢献にはならないのである。

働くことによって「成長する」の不可解さ

働くことによって成長するというのも疑わしいが、何のために成長するのか、何に活かされるのかという部分が重要だろう。働くことによって働くことの資質が養われるというのであれば、極めて馬鹿らしいものである。働くことによって得るのはお金であるから、充分な資産があるならば、働かなくてもよく、成長する必要性も生じないのである。

働くことに高尚な意義を見出す「奴隷」

辛いことも乗り越えてこそ成長なのであり、成長のために必要な試練だと考えたりするような、お金のためだけに働くのではなく、働くこと自体に高尚な意味を見出す人達は、雇い主からすれば、好き勝手に利用出来る格好の人材だろう。いくら辛い仕事を押し付けたとしても、自分の成長のためだと言って頑張るからである。彼らは自分の権利を主張せず、奴隷であるにも関わらず、その事に気づいていない。

働くことによって失われる「時間」

働くということは、貴重な時間を無駄にすることでもある。仕事の量を時間に変換して、その時間の対価としてお金を受け取っているわけである。とりわけ時給という言葉にそうした性質が現れている。一時間働いたらそのお金を貰えるというわけである。しかし、働くことさえなければ、その時間を恋人や友人と一緒に過ごすことが出来たかもしれないし、趣味の時間に費やすことが出来たかもしれない。働くことが全くもって無駄な時間であるということにしないためには、せめて自分が本当にやりたいことを職業にしたり、恋人や友人と一緒の職場で働くといったことが重要になってくるだろう。しかし、それが可能な人はごく僅かなのであり、ほとんどの人は、働くことによって多くの時間を無駄にしてしまっているのではないだろうか。

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