地球に存在する事に向いてない
今可愛い女の子にいくら蹴られても、それはそれでよしと思ってると思う、それくらい自分自身の意識が宙に浮きながら存在しているんだと思う
それこそ、女性と一緒に居られる男をクソだと言って全員殺していく法律もつくれずに、自分自身がそれを原動力として根拠として動くという口実も今やない ただただ普通に、ひきこもりというキャラを守り通しながら自分自身の今後についても考えなければいけない。幸せの形を見失ったまま、今この瞬間を生き、蔑まれていく。
この世の中は解法だけは示すけれど、その解法がどうやって作られたかをまともに知る術はない。ただただ、腑に落ちない模範解答を生まれた時から望まれていた。人間はいつからかそうして生きてきた、存続してきた。それが果たして幸せなのかもわからないまま、この世界に生まれ落ちた命。すべてが終わる日はいつになるのか。
これまで裏切ってきた奴らのせいで、自分も裏切ることになるのか。自分がここで踏みとどまるという選択肢があるのか。もし自分が、「自分の幸せだけがすべて」であるならば、自分には、「正直に生きる」という選択肢しか見いだせないだろう。周りを見渡しても、嫉妬しない奴はいない。少なくとも男には嫉妬、憎悪ばかりだ。
憎しみ、悲しみ、孤独感、閉塞感は、自分が生きている限りずっと続いていくだろう。それは、今ある自分だけの視点ではない。過去の自分が、「この世界で最も不幸な男証明書」を提示し続ける限り、それを一つ一つ見て、今の自分にある「過去の名残」を指摘させられ続ける。そうして自分はまた「今と過去を生きる自分」になる
幸せだと言い切れる奴らが自分を不幸にしてきた。不幸だと言い切れる奴らさえも自分を不幸にしてきた。もはや敵は、その相手だけではない。この世界を創った神だと言い切ったらその時点で終わりだ。人は生まれてきた時点で、不幸になる事が確定していて、不幸が次々に受け継がれていく。幸せの欠片を多く手に入れた奴が、
そういう不幸の連鎖を批判したり。逮捕したり拘束したり。そういう繰り返しで、善悪がどうだとか、勝手に誰かが決めたルールを信じて、自分が安全だと信じ続けて生きていく。権力に支配されながら、安全だと思い込み、誰かを裁き、誰かを殺し、そうして正義だと言って笑いながら生きていく。お前のその笑いを創造主に見せろ
そして僕はすべての不幸を背負って救い主になりたいと願いながら、自分自身の生活さえも救えずにいる。自分自身がリアルで救われなければいけない立場にありながら、誰かを救おうという強い意識から常に自滅してきた。無駄に自滅したんだと思う。決してこれまで得な事はなかったはずだ。ただ、大切な出会いはあった。
その出会いだけが「今ある、過去から受け継がれてきた自分自身」を肯定する。あの時、あれがなければ今あの人とは会っていなかった。そう言い続けながら、いずれ後悔するかもしれない「運命」を選び続けてきた。自分が自分であるために誰かに支えてもらって。自分はただ不満を吐き続けるだけでしかないのかもしれない。
誰かに迷惑をかけながら、誰かに支えてもらいながら、誰かを救おうと思いながら。空振りし続けながら、最近やっとヒット1本を打った。それは失投のど真ん中ストレートだったから、本塁打になった。ずっとど真ん中以外狙っていなかった気がする。打率は相当低い、1割なんて到底いかない。そんな事を振り返ってどうするか。
もう残り試合は僅かかもしれないし、もしかしたら自分が思っていたより試合数が多いかもしれない。それは決して今の自分には言えないけれど、ただ言える事は、本当に贅沢なんだろうけれど、自分が誰かを救う事はきっと出来ないんじゃないかという気がした。これまで、誰かに救われてきた。けれど自分は、誰も救っていない。
救いとは何なのだろうか。自分自身、答えの出ないものを、誰かにしようという時点でそれは困難な事だ。もしかしたら、誰かを救いたいという人は、その人自身、救われていないのかもしれない。どんな些細な事でさえ、争う事になるのは確実だ。どんなに便利になろうと豊かになろうと、「愛」が分け与えるものにならない限り、
最後は恋愛がゆえの争いが起こるだろう。クローンがつくられたとしても、結局、どのクローンか、の争いになる。多少は変わろうとも、クローンが増えていくだけで、そのクローン同士も争う事になるだろう。つまりは解決する事はない。同人音声か何かがすべてで、人間同士が一切触れあわない世界になったならば、
きっと裏を取って、同人音声の声優に会いにいく奴がいる事だろう。食べ物が有り余り、あまりにも便利で、争う必要がなくとも、その争いはどんなに形を変えようともあり続ける。人に愛される事に需要があるならば、きっとそれを求めて争い続ける事だろう。人間が完全に触れ合わない状態がつくられたとしたら、触れ合う状況に
付加価値がつけられたりして。それは値が上がっただけで不可能ではない。そしてお互いに望むものであるならば、それはもはや付加価値ではなく今の現状と全く同じだろう。つまりは、人間同士が触れ合わないという状況は、人間が人間である以上はきっと難しい事だろう。誰もが平等、はきっと実現されないし、滅亡したときに
初めてそれが実現するんだろう。そうであるならば。滅亡しなければいけない、という自分自身の結論が決して間違いでなかったという確信を持った。自分が幸せになろうとも。誰かの不幸は常に隣り合わせであり続ける。自分が幸せで相手も幸せ。けれどその幸せがずっと続かないものだったとしたら、そこで愛は憎に変わるかもし
れない。その時をその前から考えておくとしても、そうでないとしても。人が欲を中心として、自分中心に回る世界だと信じてやまない以上、決して誰かが「安心していられる幸せ」は訪れない。相手を恐れながら、相手を信頼しながら、いつしか裏切られるかもしれない。そんな争いのような信頼関係を人はずっと続けていく。
僕はただひたすらに、いつかあるかもしれない未来の大切な誰かに謝り続けておきながら、過去の自分に、「過去の自分が感じた不幸に」対して謝り続ける。そして幸せなものである事を願い続ける。宗教でなくとも、何かを信じて生きていく以外にはない。願いという言葉は極力使わないようにしてきた。
けれど今回は、いや、今回も使った。自分自身に、大切な誰かに。救われても何の恩返しが出来るかも言えないような自分を信頼してくれる人に感謝して、今日も、生きながらえている。自分自身が生きている、なんていう事は決して言えない。とっくの昔に物理的にも精神的にも死んでいただろう。今自分がいるという事は、
誰かに救われたという事だ。自分は誰かを不幸にする奴ではなくて、誰かを救う人で在りたい。自分中心だと言われようとも、結局は愛されたいだけだろうと言われようとも、「過去の自分」がそうであれと伝えている。自分が自分であるために。何の意味があるのかと言われようとも。役に立たないと言われようとも。自分は自分だ