真偽を判断するもの
ここで真偽は、前提が異なれば逆かもしれない。
よって、すべてのものは不確実。
不確実だというのが、逆であれば、今度は、
すべてが決まっていた、と言える。
よって、ここにおいて、絶対的な存在、神と言われる物が現れてくる。
神とは一体誰なのか。
確実に存在していると言えるのは自分自身のみ。
それならば、神は自分?
(いや、自分が存在しているという事は、クローンであるとは考えづらい以上、
今の時点では親も存在していると言って良い。というか、少なくとも自分の場合は、
確証はなくとも、そうであろうと、自分は観測している以上、そうであると言わざるを得ない。)
もしあなたが、自分と同じ個人ならば、
あなたが神?人間は全員神?
いや、それだと、絶対的な存在である、ということは言えない。
創造主であるはずだから、人間である、というのは考えづらい。
それであれば、自分はただのデータなのだろうか?
いや、少なくとも、データとは決して言えないような形をしているわけだが、
神からすると、人間世界において、二次元で物語を創造するように、
人間自体も、すべて最初から決められた存在であったのだろうか?
自分からは神を見ることが出来ない。
神は自分を見ているのだろうか?
いや、抽象的なものだから、お互いの意識の中に存在するのかもしれない。
信じたらそこにいる。
信じなかったら観測することは不可能。
そんな存在なのだろうか?
そう考えると、震えが止まらなくなるような思いがしてくる。
神を信じれば、神に祈れば、
無事、明日、幸せに生きる事が出来るというのだろうか?
どうやら、その確証はないようだ。
信じたら救われる、と言う人がいる。
それならば、生きているうちに救われておきたい。
(せめて、女性と少しでも交流したいものだ、と。
神を信じても、女性に優しくされるわけでもないことは、
なんとなく予想出来る。)
けれど、救われる、のとらえ方が人それぞれ違い、
神の側も、曖昧な提示しかしてくれないがために、
信じる、信じない、と、意見が分かれる。
そして、信じていたのに、神よ、と、
手のひらを返さなければいけなくなる。
信じていた分、憎しみとなっていく。
(人間は、常に手のひらを返しているような気がする。
先入観が大きすぎる人が多すぎるのだ。
~だから、この人はこういう人だ、など。
そんなもの、実際に深く接するまでは、
わかるわけがない。
深く接しようとも、すべてを理解することは出来ないはずだ。
それを、先入観だけで決めつけようというのだから、
手のひらを返す事になるのも当然だと言える。)
見えない何かを恐れる事を、まるで馬鹿げていると、
嘲笑している人もいるかと思うけれど、
そういう人達が、原発は恐ろしい、などと言っていたならば、
それはもう、見えない何かを恐れる心意気、を認めざるを得ないと思う。
ただ、見えない何かについても疑問ばかりだが、
見えているものは確かなのだろうか?
目の前にあるものは、本当にその形をしているのか?
太陽と人間が視覚を通して織りなす物語かのように語る人もいるのだろうけれど、
今はそれどころではない。
どう見えているかはさておき、
本当にそれは、そこに在るのか。在るとは何なのか、ということだ。
結局、認識しなければ、見て見ぬフリではなく、
見ているのに見えないという事実が発生する。
つまりは、理解をすることが出来ない、ということだ。
そんな事があるわけない、と言う人がいるのかもしれないが、
ならば、すべての人間に、同じものが見えているという証拠はあるのだろうか。
決して、幽霊についてここで議論するつもりはないが、
たとえて言うなら、見える人と見えない人、がいるはずだ。
それが完全なる嘘であるとか、そういう話もあるかもしれないが、
自分の中で、そうである、という確信が出来たならば、
「それ」は「それ」として認識するしかないのだ。
つまりは、別のものとして見えているかもしれない。
要するに、すべての人が同じように、ものを見ることは不可能だ。
そこに、生まれつきの個人の認識する範囲の違いなども絡んでくるが、
もしそれも考慮するならば、
決して、すべての人に、ものが同じく見えている、などとは、
冗談でも言えないようなものなのだ。
それは、似たように見える、だけであって、全く同じに見えているとは思えない。
人それぞれ、どう認識するかは違うからだ。
人は変なもので、その「認識」というものが、
自分とかけ離れていると、異常人だ、というような結論を出したりする。
しかもその基準は、極めて曖昧なものだ。
自分にとっての感覚が、
他の人にとってもそれと同じであるとは限らない。
ただ自分だけが、そうである、と感じられるだけである。
自分と相手とでは、
決して、話し合いをしても、完全にわかり合うことはない。
なぜなら、あらゆる条件を揃えて、
全く同じ経験をした人は、決して存在し得ないからだ。
だから、自分自身の事を自分でわかりあう事はあろうとも、
他人とでは決して、すべてをわかりあう事は出来ない。
そして、自分でさえも、性格が、
自分自身の中で、分裂している事も多いはずだ。
全く同じ経験をしてきたように見えて、
すべての人格はそれぞれのフィルターを通して、
それぞれの経験をしてきた、別人でしかない。
自分自身における葛藤とは、
まさしく、こういう理由から起こるものであると思う。
自分で自分がわからない。
さまざまな人格があるが、
すべて、違う。
つまり、同じ経験をしているのは、
そうである、と感じている、
その瞬間の、「自分におけるその時の人格」のみである。
他のすべての人格は、決して、
それと同じであることはない。
類似はしていようと、全く同じであることはない。
同じものを基準にしているのではなく、
常に、「近いと思うもの」を参考にしている。
なぜなら、「同じもの」はどこにもないからだ。
それぞれが微妙に違っている。
全く同じように見えても、「歴史」は確実に違う。
「その場所」に「その瞬間」あったものは、
決して同じものが他にあるはずがない。
つまり、この世の中に、
「同じもの」はない。
そして、これはただの個人的な意見でしかないということも、
言っておかなければいけない。
自分にとっての「この世の中」は、そうである、
と、自分のフィルターを通して考えた結果が、こういう結論だ。
正しいか間違いかは、人それぞれに委ねられる事になる。
もしあなたが、これは間違いだ、と言うのであれば、
根拠を、という流れになるが、
その根拠が本当に正しいのか、その根拠は、というふうに、
続けていくと、いつまで経っても終わるわけがない。
「私」「あなた」「社会」
どれも、それぞれに、違う正義があり、悪がある。
それらはお互い、力で縛ることは出来ても、
決して最後まで、納得させる事は出来ない気がする。
なぜなら、そこに至るまでの経験は、
その「個」だけのものであり、
それを経験していない別の「個」にとっては、
全く理解不能でしかないからだ。
つまり、すべて、戦いであって、
終戦は、それぞれの本心からは、絶対にない。
もしそれがあるときは、
本当にそれを、自分自身が理解するか、
単純に洗脳されただけか、である。
そもそも、すべての事柄は、洗脳でしかないのかもしれない。
洗脳と言い出したらきりがないほど、
この世の中は洗脳で溢れかえっている。
結局、どれかを信じておく、しか方法はない。
そしてまた戦いが始まる。