学生時代受けたいじめ。
その時の憎しみ。
学生だった頃は、何も言えずにただいじめる集団に屈服するのみだった。
教師の見ていないところで殴られ、蹴られ。
たとえ見ていたとしても、面倒を嫌がる教師たちは、
見て見ぬフリをして、暗黙の了解でもあるかのように、職員室へ向かう。
あれでいて「教師」だと言い張っているのだ。
いじめを知らない「教師」は、
「いじめ」を「じゃれあい」と同じかのように扱う。
特に、めったに使われていない教室、所謂空き教室の近くでかつ、
教師が通る機会があまりないと思われるところでは危険だ。
走って逃げても無駄だ。経験からして、追いつかれる可能性が非常に高かった。
両方向の階段から挟み込まれ、捕まる。
その後は、空き教室に連れ込まれ、ただひたすらに、
殴られ、蹴られ、チャイムが鳴り気が済んだと言って奴らは帰っていく。
いじめられる人にとって、トイレに行くのも命がけだ。
誰にも会わないために、
空き教室の近くだとか、使われにくい教室が近いトイレに行ったときに、
もし誰かがいたとしたならば、高い確率で殴られ、蹴られる。
そいつが何かにイラついていた時には、もう覚悟を決めるしかない。
そいつの機嫌がいいときには、悪口を言われるだけで終わる。
そのたびに、ホッとする。「ありがとうございます。」と言った事さえあった気がする。
もう思い出したくもないが、そんな光景が今少し蘇った。
普段使う教室の近くのトイレに行けば、それはそれで勿論いじめられる。
いつ行くかでさえタイミングを考えなければいけない。
男子トイレは、地獄だ。もしかしたら女子も似たようなものなのだろうか。
男子にとっては、「女子に強いと思われたいが、意地が悪すぎるとは思われたくない」から、
女子がいるときの教室では、暴力の度合いは少し弱まる。
(とは言え、やられてる側からすると、本当に一瞬一瞬、生きている心地がしなかった。)
ただ、男子のみがいるとなれば、好き勝手放題、奴らは何でもやる。
さっき言った空き教室の時も同様だ。
気が済むまで、殴られる、蹴られる。悪口なんてのはその時の自分には聞こえてすらいない。
悪口に時間が少しでも割かれる時には、心の底から感謝していた。
太っているから痛くない、と言い張る奴らに言いたい事は、
太っていても痛いし、個人的には、太っているからこそ痛いとさえ思っている。
(今試しに自分を殴ってみたが、感触としてはそうだ。)
その他にも、
勉強道具が捨てられることも、学生服がどこかに捨てられていることも、
殴られてメガネが壊される事も、メガネを外されて目の前で投げられる事もあった。
(取りに行くのが面白いのだそうだ。)
どれだって自分にとっては辛かった。
授業と授業の間の休み時間にトイレに行く事すら出来ない。
もし行ったとしたら、殴られる、蹴られる、その間に教科書を盗まれる。
トイレに持ち込んだとしても、教科書は踏まれる。
どこに行くにも命がけだ。学校はもはや戦場なのだとその時思った。
そして自分の軍は常に自分一人なんだという事もわかった。
全員を相手にする以上、やり返したって無駄だ。
さらにやられるだけだ。
ただひたすらにひれ伏し、何もしていなくても機嫌を取り、
謝り続けるしかない。
放課後だってやられる。
学校が終わったら教師が職員室へ向かうタイミングに出来る限り合わせて、
いじめられる可能性が少ないルートで帰るようにしなければいけない。
帰る途中でさえも、人通りが少ない、特に全くないような中で、
奴らと出くわした際には、これはこれで終わりだ。
悪口で済んだら運が良いが、そいつまたはそいつらが何かでイラついていたら、
その捌け口として自分に殴る、蹴る。
やめてもらうようにお願いしても無駄だ。
奴らは「どうせ死なないし、死なないギリギリの範囲で痛めつけとこう」という考えでいる。
決して「無事」には帰る事は出来ない。
そして自分は塾にだって行かなければいけなかった。
もはや精神状態は限界だった。
それでも前に進まなければいけない。
将来奴らを従えるために。
夢は世界征服だった。せめて日本の総理大臣くらいにはなりたいと思っていた。
それなりに勉強はしたけれど、高校の時点で一浪したし、
入った高校も3年の夏から行かなくなり、中退した。
自分は完全に社会不適合だった。
高卒認定を取り、大学にも入ろうとしたが、
もはや気力が残っていなかった。
(それに入っても中退するのは目に見えていた。)
自分のことをいじめていた奴らが、
今「真っ当に」生きているとしたら。
その光景を自分が見たとしたら。
それは絶対に許せない事だ。
自分が死ぬ時は奴らも道連れだ。
そう思っている。
でも、奴らのために逮捕されるのは冗談じゃねえ、とも思う。
実は最初、憎しみを忘れかけている今、
空っぽの心の自分になりかけている中で、
今後、この社会の渦にただ飲み込まれていくだけなのか、
どうやって復讐するべきか、いや、復讐って何だ、と、
その「憎しみ」が希薄になっている中で、
何の復讐なのか、
今日、明日、どうなるかに気を取られるだけの今となって、
復讐どころじゃない、と思われる今、
どうしたらいいんだろうな、いつ死ぬと決断すべきだろうか、
いや自然と死ぬんだろうか、と思っていた中で、
「憎しみ」を思い出した気がする。
そう、復讐するために「生きる」と決断した過去がある以上、
「憎しみ」を忘れたら、根無し草だ。
もはや「憎しみ」が原動力となり、自分の身体は動いているんだと思った。
そう、忘れるわけにはいかない。