よく、宣伝をするな、だとか、売名だ、等と言われる事がある。
だが、そもそもの話、宣伝、売名が悪いものなのだろうか。
なぜこういう問題提起をしなければならないかと言えば、
その「宣伝、売名」を嫌う奴ら自身が、
それに深く浸かっている事にいつまで経っても気づかないからである。
世の中のコンテンツのほとんどは「宣伝、売名」から始まる。
いかにしてまずアクセスされるか、名を知ってもらうか、
興味を持ってもらうか。
「宣伝、売名」をとことん嫌う層に限って、
「宣伝、売名」に満ちあふれたコンテンツを受け取っている。
アニメ、ドラマ、漫画にしてもそうだ。
口コミで広がるか、広告によって広がるかは場合によるが、
どうあれ、自分でそれを発見した、という事はそうそうない。
誰かに推されてそれを発見したものについては、
その「誰か」の宣伝によりそれを知ったに他ならない。
それは「自分で発見した」とは言い切れない。
「広告」とされているものは、言うならば、
宣伝してもらうメディアに対して対価としてお金を支払って、
広めてもらおう、と企んでいるものだ。
(これに関しては、人脈によってはその対価が必要となるかどうかは様々だが。)
どうあれ、強い者の推薦によって、「知らされた」ものを、
自分で「知った」だとか、発見したと言うのは間違いだ。
(こうして考えていくと、何もかも、発見した、とは言い切れなくなるのだろうが。)
そしてこの広告は、そのメディア、または紹介する側の人に対する、
受け取る側の信頼度によって、効果が変わってくる。
こうして、受け取る側は、「洗脳」の元となっているメディアが紹介するものに
また「洗脳」され、次々と「洗脳」されていく。
この連鎖は、今の社会においてはしばらく終わりそうにない。
一人一人が「今在るコンテンツのすべて」を吟味し、正当性を確かめる暇がないからだ。
与えられた情報またはコンテンツに従って、それに忠実に、
周りに合わせていく、言うならば、
「集団社会」において「洗脳集団」に入る事こそが、
人生を円滑にするものだと信じて疑わない人たちが多数派となっている。
奴らにとっては、いかにしてその「集団」から外れないかが、人生における、
「成功と失敗」を分けるのだそうだ。
少なくとも、挑戦することなく、「安定した」人生を送る上では、
それで成功だろう。
しかし、あまりにもステレオタイプな印象を受けるからこそ、
それに対する反発もある。
こうして、「集団社会」に対する対抗勢力としての「反発集団」が成立する。
(ただ、ここ最近の日本においては、あまりにもその「反発」の力が弱まっている。
言うならば、「普通」の「安定」した生活を送るために、国家、社会に屈する事になれた人が多くなりすぎたがために、
「集団社会」においてはそれが「最善策」となってしまっているのだろう。
集団の個々が、集団そのものの概念に悩んだりもするが、
多数決を取れば結局、「今のまま」、という「結論」となる。
これがずっと続いているという事だ。)
ただ、この「反発集団」は、「何に対する反発か」にもよるが、
決して強い勢力を持つものは多くない。
新たなものであればあるほど、
「もしかしたら魅力的であるかもしれない存在」であろうとも、
即座に、「これまでとは違う」という根拠にもなり得ないものを持ってして、
排除しよう、という「集団の意識」が働く。
そして、この集団に逆らおうとする者は、
「少数派」として追いやられる事となる。
そういう予測が出来るからこそ、
あえて「少数派」に回ろう、という人は多くない。
少数派に回る、という事は即ち、
これまでの「多数派」としての行動が出来なくなり、
「孤立」する可能性が高くなる。
だから、既存の「集団社会」における強い集団は、力を失いづらい。
それが力を失うときは、「その集団自体」の方針が変わるときでしかないだろう。
そしてその集団が「その時点で強い力を持つメディア」を参考に生活を送る以上、
その時点で強い力を持つメディアによる宣伝がなければ、広まる事はない。
この世の中では、決して、良いものが「良いものだ」として評価されるとは限らない。
テレビでは、可愛くもない奴が「可愛い」として押し出される。
(ごり押しされる形で、ロールモデルと「される」。
それを決めたのは、「現時点での」強者だ。
話はずれるが、教科書にしろ、文科省の奴らが勝手に「真実」として決めてしまった事が、
まるで普遍の真理であるかのように、学ぶ事を強要される。
根拠があるからだ、という声もあるが、
そもそも根拠というのは、直接見てみないと、嘘を言ってる可能性もあるという事実をないがしろにしている。
誰から始まったか、誰がそう伝えたか。
たとえば、歴史上の偉人にしろ、その権力を武器に、
「自分の有利なように」歴史を書き換えるに決まっているわけだ。
要するに、力を持ってして正義とする。
そして多くの人間はそうして言い伝えられた事を、
絶対に揺るがない普遍の真理だ、と理解してしまうのだ。
それがもしかしたら嘘かもしれない、などと疑う事がない。)
面白いと「一部の人たちが判断した」人たちが、「面白い」とは何か、
を勝手に決めて、押し付けて、笑いまでも強要する。
主観として、実際には、自分の周りにいる人の方が、遥かに「面白い」のだ。
別にこれもまた、強要した際にはまた「現時点で強いメディア」と同じ事をすることにはなるのだが、
「集団社会」を指揮するようなメディアよりは、
絶対に「草の根運動」的なメディアの方が信憑性があるに決まっている。
なぜなら、「集団社会」から外れて、どこか冷静な目で見て、ある種の達観を持ってして、
その活動をしているはずだからだ。
ただ、この「草の根運動」の中にも、
「現時点で強いメディア」を支持するだけの、「洗脳に満ちた奴らがやる」草の根運動もある。
この線引きについては、やはり個人個人で冷静に見ていくしかない。
言ってしまえば、「メジャー」だからダメかと言えば、そこまで単純でもなく、
たとえ「マイナー」であろうとすべてを信じてはいけない。
その内容がどういうものであるか、が重要だ。
そして、何をもってして正しいのか、は結局のところ、
個人個人の主観となってしまうのだろう。
もし、その個人自体が「洗脳」されていたならば、
これは結果として同じ事になってしまう。
だが、どういう結果になるにせよ、
「自分は洗脳されている」という意識こそが大事なのだ。
終わらない議論になるのだろうが、言ってしまえば、
そもそも、「日本語を使う」、いや、「人間が認識する言葉」を使う時点で、
人間にとってのみ通用する何かしら以外のものを受け入れる体制にはなっていない。
人間以外の動物、自然など、他の様々な「何か言語のようなものを発しているかもしれない存在」に対しては、「無視」を決め込んでいる。
要するに、「人間が取り決めする中で、結論が出たものに関しては、それが真理だ」
という事自体も、本来は疑わなければいけないし、
何を持ってして真理なのか、という事も、本来ならば考えてみなければならない。
(今の世界において真理とされているものは、必ず何かしらの「前提」があるわけだが。)
周りの世界がどのように自分に影響を与えているのか、
「メディア」を全く抜きにしても同じ事が言えるかどうか。
根本的なところとしては、言語以外のものを持ってしても、それは成り立ち得るのか。
答えの出る範囲で構わないとは思うのだが、
せめて「疑ってみる」事が大事だと常々思う。
誰が言ったから正しい。
どこで宣伝されてたから良いものだ。
「強い」メディアの押しがあるから、話題にするには無難だ。
そんな、全く持って思考停止と言わざるを得ない状態で世の中を見て、
常識、普遍、真理、正義、真実、など。そんな言葉を使うのはやめていただきたい。
使うのはまだしも、押し付ける奴らが不快なわけだ。
そう「言わされている」ものに、「絶対性」を見いだす事など、決してない。
何もかもが疑いに満ちている、現時点で、はっきりとしたものは何もない。
それだけは真理なのではないだろうか。
ここにおいても、真理だと言い切るわけにはいかない。
もしかしたら、「何か」真理たり得るものがこの世界にあるかもしれない。
そもそも、この世界、の「世界」とは何だ、という所からして、
どういうものか、とは言い切れない。
辞書的な意味でどうか、という話ではなく、
そもそも、辞書的な意味での「世界」にしろ、
曖昧さ故に、特定しきれていないのだ。
当面は、生きていく上では、
考えて答えが出る可能性は限りなく低いとしても、
「疑ってみる」必要があるように少なくとも自分は思う。
何に「洗脳」されているのか。どこから始まったのか。