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「親不孝」という「親」寄りの表現

 よく「親不孝」などという言う人がいる。しかしその表現自体が実に「親」寄りのものだと言えないだろうか。子供には生まれたいかどうかを選択させず、無理矢理この世に誕生させ、「親」の理想の子供に育ってほしいだとか、それともなければ、勝手に自立してやっていけなど言いながら、今度は「親」の世話をしろなどというのは、あまりに「親」の都合が先行していないだろうか。
 「親」の自己満足でこの世に誕生し、弱者として生まれた「子供」は、強者である「親」によって教育され、自立するように促される場合が多い。自立するということは実際のところ、「親」が大富豪でもなければ、もし好きな職業や良い職業に就けなければ、ただひたすらにカネのためだけに没個性的に疎外された労働をし、何かを主張する権利も与えられないまま、死なないために仕方なく生き延びるという虚しい繰り返しを始めることでしかない。
 そうである以上、働かないとか、引きこもりになるというのも、全く持って異常なことではないはずだ。社会の維持が趣味でもない限り、誰も社会のために尽くそうなどとは思わないだろうし、社会に尽くしても自分に直接的に何かが返ってくるわけでもない。
 そんな社会に無理矢理「子供」を誕生させるということの重みが、実際のところ「親」にはわかっていないのかもしれない。特別な事情でもない限りは、自分がこの社会で真っ当に育ち、結婚もして、周りに合わせるようにしてステレオタイプな家庭をつくろうと躍起になって「子供」を産んだだけである。
 「親」というのは、何らかの理由があって強制でもされない限りは自己満足で「子供」を産んでいる。そして、あらかじめ選択肢が与えられていないにも関わらず「子供」は「親」による「自分は一生懸命お前を育てたからそろそろ自立しろ」だとか「うちは貧乏だから身の程を知って生きろ」などという一方的な命令を無条件に受け入れることを要請される。実際にそれで「子供」が何の不満もなく生きていけるならば問題はないかもしれないが、そうとも限らない。
 しかも「子供」には努力ではなく結果を求めるにも関わらず、自分は結果よりも努力の功績を訴えようとする「親」も多いようだ。自分は一生懸命頑張ったから「子供」も自立するだろう、という実に身勝手な予測を元に「子供」に押し付ける。人間には様々なタイプがあるという多様性を認めず、主観的な意見を「子供」に適用しようとしても、それ自体が困難である。
 「親」が努力したからと言って「子供」が幸せになっていなければ意味がないし、そもそも「子供」が「生まれたくなかった」と思うようであれば、やはり初めから間違っていたと思うべきだろう。
 どこまでも身勝手なのが「親」なのだ。本来ならば「子供」は「親」に感謝する必要もないし、「親孝行」などする必要もない。勿論、老後に面倒を見る必要もないのだ。
 それにも関わらず「親不孝」という表現を当然のように使う人は、そもそも「親」の行動が正しいという前提を信じているからに過ぎない。生まれたくなかったと思っている「子供」にとっては、「親」が自分を産んだこと自体が迷惑行為でしかないと思っているかもしれない。いくら「親」が「一生懸命育てた」からと言って、何もかもが虚しく響いていくだけなのである。