「生きたい」「生きたくない」「死にたい」「死にたくない」。それだけではない。生きたくない、死にたくもない人だっているのだ。生きたい、No(ノー)。死にたい、No(ノー)。
けれど、一生涯働かずに生きていくことが出来るのは、ごく一部の裕福な家庭に生まれた人に限られている。引きこもりもニートも、期間限定のものでしかない。死ぬまでに何らかの方向性を見い出し、食っていくことができなければ、餓死するしかない。社会と全く関わりがなく「消極的に生きる」という事は出来ないのだ。明確に弱者であると認定されなければ、国も助けてはくれない。
そう考えると、いくら社会が嫌いでも、自分以外の人間全員が憎くても、嫌いでも、関わりたくなくても、関わりたくない集団ばかりが目の前に現れたとしても、そこに身を委ねて労働するしかなくなる。自分の好きな事を仕事にしたいという人はたくさんいるが、それを出来る人はごく少数でしかない。面倒で嫌な事を延々と、何の意味があるのかわからないままに続ける事でしか生き続けていくことは出来ない。
全てに対してNo(ノー)と言い続けることが出来ないのが、生きていくということなのだろう。かと言って、答えを出さないわけにもいかない。生まれてこなければよかったと言ったところで、生まれる前に戻ることは出来ない。
生きたくない、死にたくもない。そこに「働きたくもない」と付け加えられたとき、その人の命はただ環境に左右される。他人の下で働くことが嫌ならば、自給自足をするか、自分で起業するしかない。それで生計を立てることが出来なければ、国であれ親であれ愛人であれ、何者かに助けてもらうしかない。それが出来なければ、生きていくことはできない。
たとえそれが出来たとしても、働かないという自由さを持ちながらも、一方では、途方もなく束縛されている立場に身を置くしか無い。またお金を貰えるかどうか、常に怯えながら暮らしていかなければならない。この世の中では「消極的に生きる」という事は不可能であり、もし本当にそれを突き通すとすれば、結局は死ぬという選択肢しかなくなってくる。
死にますか、死にませんか。これまで「No(ノー)」と言い続けてきた人達が、ついには「Yes(イエス)」と答えるしかなくなる。それしか選択肢がなくなったからだ。