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やっぱり武器を持ってもダメかもしれない(続・武器を持たずに街へ出る「平和ボケ」した日本人)

 自分が浪人生(といっても自宅浪人だったのだが)のとき、
果たして自分は外に出ても無事に帰ってくることができるのかと常に不安に思っていた。
というのも、自分自身が何か事件を起こしたくてウズウズしている状態だったため、
自分みたいな人が近くにいたら恐ろしくて仕方ないと思ったのである。
その結果、極端に外に出られなくなり、完全に「引きこもり」になった。
勿論、危険地帯にいるわけでもないのだから、流石に考えすぎだと思われるかもしれない。
普段「平和」だという前提でほとんどの人は過ごしていると思うのだが、
日本がもし自分のように「何か事件を起こしそうな人」ばかりだったら恐ろしいと思わないだろうか。
今でもその考えを完全には捨てきれていないため、必要最低限以外に外出をしないようにしている。
外に出れば出るだけ「死」の可能性が高まっていくような気がするのである。
 日本では基本的に武器を携帯することを法律で禁じられているような、言ってしまえば「平和ボケ」を強要しているとも言える国なのだか、そんな国で果たして、いざというとき身を守ることができるのだろうか。
そして実際のところ、「平和ボケ」していた方がいいのだろうか。
 例えば、「抑止力」としての武器を全員が平等に持つことを法律で許可したとして、
全員が武器の上では同じ条件を与えられたらどうなるのか。
一見、実に有効なように思えるし、自分もそう思う部分があるのだが、
結局「抑止力」は有効なのかと考えてみると、そうとも言いきれないのである。
というより、「抑止力」なんてあっても無意味かもしれないと思ったのだ。
 まず、「抑止力」として持つ武器というのは難しくて、
いくら適当な警棒なり折りたたみ式のナイフを持っていてもいざというとき何の意味もなく、
近くに爆弾でも投げ込まれたら防ぎようがないのである。
防ごうと思えば、対爆スーツくらいは着用していなければならない。
 その他にも、地下鉄サリン事件のようなことを密室で実行される場合を想定すれば、
防毒服や防毒マスクは必要になってくる。
 また、自分が「抑止力」として有効なのではないかと考えていた「ナイフ」が武器となる無差別殺傷事件に関しても、
結局はその後死刑になる可能性が高いため、殺し合いに持ち込んでしまっても構わないと思っている人もいるかもしれない。
「いるかもしれない」のは当然だが、そもそも無差別殺傷事件を起こすような人は、その場で殺されてもいいくらいの覚悟があるのではないかと思う。
「いるかもしれない」ではなくて、ほとんどの場合そうなのかもしれない。
 これがもし現時点での「自分(=月永皓瑛)」のような人、つまり「何か事件を起こしそうな人」の場合には、
今後死刑になるとしても、全員が武器を持っていれば、事件の最中にどんな攻撃をされるかわからない。どんな人が応戦するかすらわからないし、その程度もどのようなものかわからない。
しかもその場で死んでしまっては人々が騒ぎ立てる様子を見ることができないため満足して死んでいく事もできないし、
死刑になるまでの間に何らかの声明を発表したりして社会をバカにしたりすることもできない。
というように考えれば踏みとどまるかもしれないと予想したりもできるが、これはあくまでメタな視点からの考えであり、事件を起こす人の実存とは似つかないものである。
 結局のところ、いざというときに「抑止力」というのはほとんど意味がないのである。
どんなことをやってもおそらく「完全に」身を守れるわけではない。
「抑止力」としての武器を持ったところで、相手が殺される覚悟を持っているならば、反撃しようとしたりすれば逆に相手を威嚇してしまうかもしれない。
そして、「抑止力」としての武器を全員が携帯していいとなれば、事件を起こす当事者はいかにしてそれを突破するかを考えるのだから、「抑止力」だけでは効果がないのである。
しかも本気で抑止しようとすれば、相当「重装備」でかつ「ある程度効き目のある武器」を携帯していなければならず、これではもう常に戦争状態といっても過言ではない。
そして、それでもやはり事件を起こそうという人はその上を行くのだろう。
 しかも困ったことに、「抑止力」としての武器を持ったとして、応戦できる権利があるというのはいいのだが、そうなれば今度は「正当防衛」とは何かを根本から変え直さなければならないかもしれない。
先に武器を使い攻撃したとして、「正当防衛」のつもりであっても自分が傷害事件の犯人になってしまうようでは何の意味もない。
また、状況がどういうものであったかを確かめる手段がなければ、「正当防衛」という名目で殺人事件を起こすことも容易になってくるし、そう考えるとこの「抑止力」としての武器というのは非常に複雑な問題を抱えているということを再確認させられる。
 しかも現状では日本にいる多くの人が「相手は武器を持っていない」という前提で日々の生活を送っている。
それをいきなり「相手が武器を持っているかもしれない」という前提での生活に切り替えるとなれば、多大なストレスを抱えながら生活することになるだろう。
事件などいつ起きるかわからないにしても、武器の携帯が許可されれば今度は
「いつ誰に殺されるかわからない」などと思い悩んだりすることは必然的に多くなるはずだ。
日本は無法地帯ではないのだから、殺傷事件を起こせば完全犯罪でない限り法的制裁は免れないのだから、武器があるから事件が起こるというわけでもないはずなのだが、精神的にはそう割り切れるものではないのである。
 
 となればやはり日本人は今のところまだ「平和ボケ」していた方がいいのではないか。
武器を持つ持たないが重要なのではない。事件を防ぐためには、
ありきたりだが、いかに社会が包摂的になるか、つまり金に困らず異端を排除しない社会になるかが重要なのである。
 しかしながら、「抑止力」としての武器を考えなければならない場面もやはりあるのだ。
以前久々に青森に帰ったとき、(田舎とはいえ)特に目が行き届いていないような地域で、
若い女の子が夜、一人で歩いていたのである。
夜は危ないから気をつけて、などと優しく声をかけたり、家まで送ってあげたりすることも考えたのだが、それはむしろ相手に恐怖感を与えることかもしれないと思ったためやめた。
しかし、こういう場面をそのときだけでも数回目撃したことを考えると、これは深刻だと思った。
おそらく田舎ではあのような生活を日常的に成立させるしかないのだろう。
とはいえ、現に意地の悪い男どもはそういう場所を狙ったりするのも事実だ。
また、田舎ほど面白い場所がなく、田舎の男は常に退屈な日々を送っているため、
そのはけ口として女性が性的な被害に遭うことが多い。
だから、女性は田舎には住まない方が良いと個人的には思うのだが、現実問題として、
田舎に生まれた以上、そのまま住み続けるしかない状況があるのは事実である。
となれば果たして、どのように身を守れるかと言ったら、やはり考えられるのが「抑止力」としての武器なのである。
 これは「女性だけ」が武器を持っているのでなければ意味がない。
この非対称さが「抑止力」として効果を発揮するのである。
しかしここでもやはり「性同一性障害」の人は果たしてどうするのか、ということになったり、
何より男性から「男女差別」と言われて相当な反発があることは確実だろう。
自分の命を危険に晒してまで性的な欲求を満たそうとする人がいるならば、やはりこの「抑止力」も意味がなくなるし、実際に武器を持っていても「どうせ使わない」と相手が思っているような状況であればやはり効果はないのだが、持たないよりは持った方がいいのではないかと思ったりするのである。
そして勿論、「男女平等」というのを厳密に考えるしかないのであれば、「男性は性的な被害を受けないのか」という指摘が出てくるだろうし、被害を受けないわけではないと答えるしかないのである。
 これの根本的な解決法は「田舎からの脱出」か「田舎を田舎でなくする」しかないのである。
しかしながらいきなり田舎を根本から変えることも現実的には難しいのであって、
やはり「田舎からの脱出」を念頭に考えなければならない。
となれば、金銭的に田舎から脱出できない人は、仕方なく田舎にいるしかないという現状を変えるために金銭的な補助を受けるしかないだろう。
やはり包括的な社会の徹底が必要であり、引きこもりやニートであっても最低限生きていけるような状態をつくるべきなのである。
 そして、田舎が好きだという女性もいるのだから、やはり警察も「抑止力」だけの置物やどうでもいい点数稼ぎをしているだけではなく、本当に役に立つ必要があるし、田舎とはいえど安全性を確保できる仕組みがなければならない。でなければもう田舎ではバレないようにであれば何をしてもいいことになってしまうのである。
 結局今のところは身を守る術と言ってもできることは限られていて、
まず「抑止力」としての武器という考えは一切解決にはなっていなく、武器を持っていない状態をただ単に「平和ボケ」というだけでは意味がないのだろう。
かといって「抑止力」としての武器が必要だと思われるような場面も勿論存在している。
そして、いかに包括的な社会にして金銭的な問題をまず解消し、
他人であっても最低限「人」だと思えるような余裕を持てるような社会でなければならない。
そうでなければ、バレなければ何をしてもよくなるとともに、バレてもいいなら、つまり法的制裁を受けても構わないとなれば何をしてもよくなる。
 身を守るためにはまず事件が起こってからでは遅いのであって、
「起こさなくていい」と思えるような社会でなければならないのである。
 多少なりとも事件が起こるのは人間同士が生活している以上避けられないことだが、それをどの程度でとどめておくことができるかどうかはやはり社会の在り方にかかっているのではないかと思う。