一度成立した「ルール」を守り続けることが絶対的正義だと思っている人が数多くいる。彼らはその「ルール」自体を疑おうとはしない。また、多少不満があったとしても結局は、周りに合わせて空気を読むことが「善い事」だという結論に落ち着くことになる。
皆で異議を唱えようだとか、「ルール」を変えようなどという動きはなかなか起こらない。起こそうとしても大抵、独り言か、よくても数人による小さな動きで終わってしまう。
そして結局彼らは「空気を読めない人」だとか「ズルい人」などと称され、不当な評価をなされて終わる。
果たして「空気を読む」ことはそんなに「善い事」なのだろうか。
彼らはまんまと、「ルール」を決めた権力者の罠に引っかかることだろう。一度成立したら、それ自体に欠陥があろうとも、絶対にその「ルール」を守り続けなければならないからである。「ルール」は必要に応じて変更されるべきものであって、それ自体を守るためにあるのではないだろう。
本来ならば人間が「ルール」を前に何も言えなくなるような事態が起こることなどあってはならないはずである。
また、権力者について「自分達が選んだから仕方がない」などという諦観を持っている人などは、もう権力者の奴隷に成り果ててしまっている。「ルール」を権力者が勝手に書き換えたとしても、彼らは「仕方ない」というのであろうか。「ルール」が勝手に変更されてからでは遅いのである。
なぜならば、彼らにとっては「ルール」が絶対的正義なのだから、それを守らなければ「空気を読めない人」になるし、それを破ろうとすれば「ズルい人」になるからである。
果たして、権力者は「ズルい人」ではないのだろうか。
流石に人間なのだから、明確に権力者が「悪者」だとわかれば、誰しもそれなりに抵抗することになるのかもしれないが、「悪者」が権力者になった時点でもう遅いのである。またその「ルール」を守らなければならないという人が大量発生して、それ自体が絶対的正義になってしまう。
いや、そういうことはないだろう、という人がいるかもしれないが、これは起こり得ることである。そもそも「悪者」だと判断できないような人なのだから、権力者が「善い人」であるかのように印象操作をして既成事実を積み上げられていくにつれて、今度もまた騙されるのである。これは陰謀論などと言って吐き捨てていいものではないはずである。
不満があっても空気を読んで我慢するべきだとか、皆も我慢しているから、などと言って、実際にその「ルール」が適切なものであるかを疑おうとしない、疑ってはいけないという圧力こそが、いわゆる閉塞感と称されるものの一部であるのだろう。
皆が皆、相手の顔色ばかりを気にして、なぜ成立したかもわからないような「ルール」を空気を読んで守り続け、不満すら口にできず、権力者に何も言わずに従うだけの奴隷になることを強要される世の中に、そろそろ誰しも嫌気が差してきているはずなのである。
それでも彼らは未だに何も言わずに従い続けるつもりなのだろうか。いや、言えないのだろう。自分が明日も生きていくため、そして大切な仲間を守るためには、何も言えないのだ。
権力者にも従い続けるしかないし、既存の「ルール」が暴走しようとも、周りに空気を読んで我慢し続けている人がいる限り、自分が不満を言うことは許されない。
崩壊するときには一気に崩壊するのであろう。そしてまた新たな権力者が選び出され、また大勢が空気を読んで従って、と似たように繰り返されていくのだとしたら、虚しいものである。
それを知ってもなお、何も言わずに空気を読んで「ルール」に従い続けることが「善い事」だと言うのだろうか。