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下積みに「価値」はあるのか

 下積みを経験したから出世したと語る人がいる。しかし下積みを経験したところで出世できるとも限らず、一生涯下積みの人もいるはずである。また彼らにしても、本当に下積みを経験したことが出世した直接的な理由になっているのだろうか。本当にその経験は必要だったのであろうか。出世したからこそ、「あの下積みがあったから今の自分がある」などと綺麗事を言えるのではないのだろうか。
 また、こうした主張をする人達の影響を受けたのか、下積みによって自分を成長させることができるという奇妙な信仰を持つ人さえもいるようである。彼らは明確な目的意識を持っておらず、とりあえず下積みを経験しておきたいというわけであるが、全くもって目的と手段を履き違えている。果たしてその経験はその後の人生で役立つのか、全くもって疑問である。
 目的意識がなく修行としての役割も持たない下積みは明らかに時間の無駄であろうし、目的意識があり修行としての役割を持つとしても、下積みそのものが素晴らしいという発想はやはり、目的と手段を履き違えている。必要な能力を身につけるために修行をするという意味合いで下積み経験が必要なのだとすれば、その期間は極力短い方がよく、長期間の下積み経験などが全く擁護に値しないのは当然であるが、下積み自体が無いに越したことはないのである。
 出来ることなら下積みなど経験せず、より恵まれた状況から始めた方が、結局のところ良い結果を出すであろう。人生は短いのだから、成果を残すための時間は限られている。その大切な時間を下積みという奴隷の経験に捧げるということを、単に時間の無駄とは言わずに美化したところで、下積みから始めても自分はある程度の結果を残すことができたということでしかなく、下積みが恩恵をもたらしたということには決してならないのである。