それは不本意ながらも、人類滅亡の日、いや、衰退の日かもしれない。
そう思うほどに、辛い思いをしている人がいるんだな、と思う。
僕にとって、頻繁に会う友達というと、正直今のところいない。
ある意味で、社会的に孤立した状態で生きている。
人と話すことがほとんどない生活、と言える。
けれど、多少なりともネットで絡みのある人はいる。
所謂リア友というのも、携帯でメールをするくらいの人は1人くらいいる。
そういう人を含め、知り合い、と言うならば、
僕の知り合いは、基本的にレアな存在、たとえば、
二次元に極端にハマっている投資家の人であったり、
最近投資に詳しくなった、物知りの韓国の人であったり、
革命家気質のひきこもりの人であったり、
自分の身体を切り刻まないと気が済まない人であったりする。
全員、とても性格が良い。
優しさも気遣いも、すべてを知り尽くしているかのように思う。
不快な思いというのをさせないし、人の痛みをよくわかっている。
ある意味で、「普通」な人という無個性な感じの人達が、
無意識な抑圧や、先入観、常識という根拠のないものを押しつけてくるのに対し、
彼らは、そういう人達とは全く違い、自分自身も辛さがわかるだけに、
他の誰かの辛さもわかっているんだと思う。
勿論、その辛さの度合いというのは、先ほどどういう人か紹介したのを見て貰えたらわかると思う。
けれど、色々な人が居る中で、あえて人と違う存在であり続ける、
ということは、本当に素晴らしいことであると僕は思う。
たまに疎外されたり、根拠もなく蔑まれたりすることもあるかもしれない。
それは、社会が、「普通」というくだらないものを基準にして動いているからだと思う。
けれど僕にはそれに何の魅力も感じないし、「普通」なんてダサい、とも思う。
だから、個性があるというのは大事だ。
少なくとも、あった、という経験が大事。
正直に言うと、自分を傷つけるのはやめてほしいとは思う。
そうして痛みを知っているからこそ、幸せになってほしいからだ。
僕は、苦しい経験をしてきた人の幸せは心から願っている。
いつも、自分が一番不幸だ、と思うけれど、
そうして辛そうに今を生きている人を見ると、
どうして自分に、不幸、だと言える権利があるんだろうか、といつも疑う。
自分は自分にとって不幸だけれど、
その人とは度合いが違う。
というより、自分を傷つける、という選択をする、
自己犠牲の精神が、僕には真似出来ないし、
勇気もない、あげく、いじめられてきていたのもあって、
逆にそいつらを殺そう、だとかを常に考えてきた。
僕には、自分を傷つけるという選択をした、
心優しい人を前にして、
自分が一番不幸だ、
などと絶対に言えない。
そもそも、僕は不幸ではないのだろう。
そう思うようになってくる。
自分しか知らなかったから、自分が一番不幸かのように思って居た。
今苦しい思いをしている人は、確実に、僕より不幸であると言える。
だから、そういう人には、幸せに生きていて欲しい。
これは自分の本音であり、願望でもある。