回り始めた歯車は、果たしてそれを回し続ける事が幸せだと言えるのだろうか。
そして何より、何者が何の目的で歯車を回そうと思ったのか。
この世界に在って自分は常に思う。
誰しも本当は、些細な事で争いをしている場合ではないのかもしれない。
この世界で争いは様々な形を持って、起こり始める。
その原因さえも、いつしか忘れていく。
失われていった何かのための復讐を永遠に掲げ、争いが続いていく。
そして人はいつしか死ぬ事だけが確定している。
宗教の世界では、生まれ変わりがある、と信じて疑わない人もいるかもしれないが、
もし本当にそうであれば、その証拠を出して欲しいと思う。
信じれば救われるのだろうか。
これまで信じても救われなかった人達は数多くいると思う。
少なくとも現世で救われないならば、現世で祈る事もナンセンスだと言える気がする。
いつも思う。
誰かを救う、とは一体何なのだろうか。
一生、その人の保護し続けるという事なのだろうか。
一生、その人の言う事を肯定し続ける事なのだろうか。
それとも、一生、その人を勝手に「自分的には良い」と思う方向へ強制的に仕向けて、
偶然うまくいったら、救った、と後で自慢げに語る事なのだろうか。
たとえどれであろうと、救った、と言い切れる内容なのかもしれない。
というより、救えたかどうかはその人の一生を見届けるまで言える事ではないかもしれない。
誰かを救う、という事がこれだけの困難な事だという事を思えば、
人類を救う、という事は尚更の事で、比較する事も出来ない。
世の中には思ったよりも多くの、
人類を救いたい、という存在がいる気がする。
けれど結局、自分がいかに生きるか、という事でもはや精一杯な人がほとんどだろうと思う。
誰かを救えたという実感と、実際に救う事では全く違う。
そして、たとえ「誰か」を救えたとしても、人類全員を救う事は決して出来ないとわかり始める。
愛した何者かのために自分を尽くし、守るために人は生きて。
誰かを守ろうとする誰かを倒しながら、次の踏み台にして生きていく。
誰からも守られない人を踏み台にするかのごとく生きていく。
そう言っている自分は確実に、この瞬間も誰かを踏み台にしているに違いない。
ここで堂々と「語る」事を出来ない人は、きっと憎しみを抱く事だろうと思う。
見える範囲で争いが行われ、そこではずっと新たな戦の歯車がつくられ、回される。
その樹形図を辿って、最初に歯車を回した存在は何者だと言えるのだろうか。
人類を救うと意気込んで、誰一人として救えていないとともに、
自分自身がただ保護されていた、という事実に気づく事になった。
回り始めた歯車は、続ける事が幸せだと言い張るならば、ある時、ある場所における幸せを、
まるで当たり前であるかのごとく設定して、頑張ればそうなる、と適当な言葉を付け加えることしかできないだろう。
もしその回り始めた歯車を、本当に止めるとするならば、今幸せを感じている人にとっては、限りなく不幸であるに違いない。
終わらせたい人、終わらせたくない人。
全員が、幸せになる事は、しばらくなさそうだ。
少なくとも、「幸せ」になるという事件自体は、たくさんの「不幸」の上でのみ成り立つという事だけはわかる。
いつしか衰退する。いつしか滅亡する。
どうあれ、いつしか、そうなる、という事は何となくわかる。
であれば一体、人は何のために、種を存続させようとするのだろうか。
果たしてそれが幸せだと言えるのだろうか。
こんな事を言うと、親に感謝しろ、と言われるけれど、
自分の場合は感謝せざるを得ない様々な事があったにしても、
そういう情や、事実関係抜きに、手放しに、本質的に、
生まれてくる事は幸せなのだろうか。
その点において、誰一人として責任を持つ人はいないような気がする。
本当に、絶対、生まれてくる存在が、幸せだ、と言い切る姿を確信していたのだろうか。
そして、現にそうなったのだろうか。
言いたい事はただ一つ、これ以上歯車を回そうとする事はやめたほうがいいのではないかという事だけだ。
結局、人間はエゴイズムだけで存続してきた気がする。
誰しも強制は出来ないが、誰しも縛りを与えられ、幸せであると言い切れる人は、少ない。
今すぐ終わらせる事は出来なくとも、早いうちに終わった方がいい気がする。
創造主がつくった、終わりの見えない、バッドエンド以外用意されなかったゲームに、
これ以上多くの人達を参加させてはいけない。
たとえ最初はそのゲームを楽しいと喜んだとしても、
参加者を増やそうと意気込んだとしても、
たとえ誰かがハッピーエンドを迎えたつもりになる事があるとしても、
エンドそのものがハッピーであるならばバッドであって、
バッドであるならばエンドがハッピー。
どちらに転がろうとも、ハッピーエンドという物は最初から存在しない。
そして、たとえ自分がこの世界に存在している間はそうでないとは言え、
物語の最後は、バッドエンドなのが確定している。
そもそも、すべての物語の終わりというのは、
終わる事それ自体が、バッドでしかないのではないだろうか。
永遠に続く幸せは存在しない。
たとえ永遠に続く幸せが存在したならば、
それ自体が当たり前になりすぎて、いつしか幸せだと感じなくなり、
飽きが来て、幸せを壊そうと試み始める。
永遠の幸せを望んで、たとえ手に入ることが、あったと仮定したとしても、
それは決して、幸せであるとは言い切れない何かだと思う。
もはや、それを考え始めた時点で、永遠の幸せというのも無い。
知らない事こそ、存在しないという状態にある事こそが、
相対的には、幸せなのではないか、と思う。
かと言って、今から「存在しない」状態に戻ると決められる事があるならば、
それはそれで、恐ろしくて仕方ない。
今のままでありたい、と思う事だろう。
つまりは、考え始めたその時点で、解決する事はない。
こうも長く話を続けている今現在も、
この話をどうやって終わらせるのか、悩んでいるくらいだ。
何かを考え始めたら、終わるという事は、
自分の中で納得する、という事でしかないんじゃないかと思う。
たとえ反論があろうと、誰かが賛同するから、と言い続けるしかない。
誰も賛同しなくても、自分は賛同する、と。
そうして別の話もすればするほど話は終わらない。
少なくとも、自分が終わらせようとしなければこれ自体も終わらない。
だから今、4:49、終わる。