人は決してわかり合う事は出来ない。
幸、不幸も、主観的にしか捉えられない。
人がある時、争いを始めたら、
互いが納得して終わる事は決して無い。
そして、完全に終わる事はなく、
かつての争いの名残、過去が、その後も常に生き続ける。
争いが終わる、という事は、
どちらかが妥協するという事だ。
それ以上の被害を防ぐために、
死ぬまで我慢し続ける事でしかない。
癒しを与える何かがない限り、
決してその感情が癒える事はなく、
しかも、怒りが消滅したわけではなく、
癒しでその濃度を薄めただけに他ならない。
もし、その癒しがない人が怒りを感じ続けていたならば、
そして、その人自身に捨てる物がない、と思ったならば。
それは対象を殺して復讐するという事さえある。
そうして争いは、個人であれ、集団であれ、
そこに関わる人達の間で常に起こり続けていく。
実際にはありもしない先入観で相手を批判したり、
集団すべてが憎しみの対象になった結果攻撃されたり、
喧嘩をしようとしてなくても、扇動される場合もある。
不当な争いも常に起こり続けていく。
どこでどう振る舞えば自分が得をするのか。
どこでどう振る舞えば自分が優越感を得られるのか。
そうして人は、何を綺麗に言おうが、
自分が一番という前提で常に事を運んでいる。
けれどそれは当たり前と言えば当たり前であるが、
そのために、終わらない争いが創り出される、という事も言える。
相手がどう思い、自分がどう思うか。
最初はお互い、50%ずつを賭けて争いをしていたが、
争いをして勝って得られる物は、
お互いのそれを合わせた100%ではなく、
そこからいくらか引かれた物でしかない。
もはや争いをした時点で、お互いに失う物がある事は避けられない。