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不自由な「創造主」としての「自分」

 「自分」は「創造主」であると考えられる。「自分」にとっては「自分」が観測したものしか実在しているとは言い切れず、その前提となる周囲の環境も予め実在していたわけではなく、「自分」が観測することによってその瞬間に創造したと考えられる。
 また、「自分」が創り出した環境に対して「自分」が何かを感じ、これまで知り得ないとされていたことも、その環境によって発見したり、他の物事を予測したりする。
 「自分」が創り出した世界の住人と共通点が見つかり、「自分」もまたその一人に過ぎない考えるようになったとしても、決して他人になることもできないし、今ある「自分」から離脱して客観視することもできない。あくまで世界は「自分にとっての世界」で閉じられている。
 また、「創造主」である「自分」を創造した者が存在したとしても、「自分」もまた「自分にとっての世界」を創造している「創造主」である。どこまで世界をメタ化しようとも、少なくとも「自分にとっての世界」を創造している「創造主」であることは決して覆らないはずだ。
 とはいえそれは「自分」にとって都合の良いものばかりではなく、「自分にとっての世界」そのものを価値判断されたり、望まない現実を創造してしまうこともある。「自分」が創り出したものによって「自分」が幸福になったり不幸になったりするのである。
 人間関係をうまく構築できたり、好きな人と一緒に生きていくことができたり、金銭的に満足のいく人生であろうとも、いじめられたり、好きな人に告白して振られたり、金銭的に厳しい人生であったり、法律違反をして身体を拘束されたりしようとも、「自分」がその世界を創り出してしまったとともに、その世界をそのように捉えたという事実がある。それ以上でも以下でもないと言えるだろう。
 決して「自由」に世界を創造できるということはない。望むか望まないかに関わらず、様々な事実を勝手に創造してしまう「創造主」が「自分」である。