人は他者とのコミュニケーションの際に「言葉」を使うが、「言葉」というものは実に曖昧なものである。「言葉」の意味についてはせいぜい、親や教師から教わったり、辞書の権威を信じてそれを採用したり、友人達と会話を繰り返しながらなんとなく理解していくなどして、それなりにわかったような気がしてくるだけである。
そのため、奇跡的にお互いにコミュニケーションを取ることができているだけであって、いくら突き詰めても「言葉」の意味は「わかった気になる」ことしかできない。コミュニケーションというのはあくまで自らが最終的に<ある言葉>を<ある意味>で使うと仮定した上で、それを相手もある程度共有しているであろうと期待した上で言葉を投げかける繰り返しでしかない。
誰もが同じものを見て同じように考えることができるという認識は誤りである。表面的にはコミュニケーションが成立していたとしても、相手の視点に立って物を見ることができない以上、物がどのように見えているか、物事をどのように考えるかを認識することはできない。
にも関わらず、ほとんどの人は自分が見えているものを相手も同じように見えるという前提で振る舞い、難解な事柄でない限りは自分と同じように相手も考えるのが当然だと仮定してコミュニケーションを行う。そして、相手とのコミュニケーションを取ることができただけであっても、相手を理解した気になるのである。