説教という行為は基本的に、多様性を認めず、自分の意見を他人に押し付けようとする性質を持つ行為である。しかも、その性質からして、説教する側が優位に立つという権力関係も生じることになる。
ただし、自らが望む説教を聞くという場合だけは例外である。この場合は、相手に意見を押し付けられているわけではない。むしろ相手を利用していることになる。そのため、説教する側が優位に立っているとも言えない。
しかし、それ以外の説教、つまり自らが望まない説教については、先述した性質が露骨に現れることになる。それは、自己満足のために行われる嫌味な説教だけではなく、相手にとって有意義な内容の説教であっても同じである。
相手のためを思って説教をするという人は少なくない。しかし、説教される側が説教をどう解釈するかが問題である。説教が相手にどのような影響を与えるかは、説教する側には知り得ないことである。誰もが、説教されたお陰で成長できた、という人ばかりではない。
中には、精神的苦痛を受けたり、酷い場合には自殺をしてしまう人もいる。特に、人前で説教をされたり、大声で怒鳴って説教されたりした場合はそうなりがちであろう。こうした場合、多くの恥じらいや屈辱を感じ、精神的苦痛も大きくなってしまうからである。
このように説教は、相手にその内容を伝えるだけの行為ではない。望まない説教は、相手に不快感や精神的苦痛を与えてしまう行為である。しかも、その影響が一時的なものであるとは限らない。長期的なものであったり、命に関わることさえあるかもしれないのである。