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武器を持たずに街へ出る「平和ボケ」した日本人

 武器を持たずに街へ出るとどうなるだろうか。
日本ならば大抵の場合は無事に帰宅することが出来るだろうし、
多くの人は何ら危機感を抱いていないだろう。
しかしながら、絶対に毎回無事かと言えばそうではない。
誰に何をされるかは「運」次第なのである。
 しかしながら日本では、拳銃どころかナイフさえ持ち歩くことはできない。
刃渡りに関係なくナイフを持っているときに警察官に手荷物検査をされる羽目になったときには動機を聞かれるだろうし、場合によっては任意同行を求められ、場合によっては逮捕される可能性も出てくる。
刃渡り6センチならば銃刀法違反になるが、軽犯罪法においてはちょっとした武器でさえも違反対象になってくるのである。
「護身用」のための武器所持というのは通用しない。
そのため、警察官の気分次第では点数稼ぎのために逮捕される可能性も否めない。
日本ではそれほどまでに、「抑止力」のための武器を持つことは「悪い」事と見なされているのである。
 もし「全員」が武器を捨てることが出来るならば実効性はあるかもしれないが、
実際にはそうではなく、結局はバレなければ持ち歩くことも出来るし、傷害事件・殺人事件を起こすことも可能なのである。
つまり、いくら「悪い」事だと言っても無意味なのである。
確かに、「悪い」事だということにしてしまえば、多くの人が武器を持ち歩くことはないのかもしれない。
結果的に衝動的な傷害事件・殺人事件を減らすことには繋がる可能性もなくはない。
 しかしながらこれは、全員が「抑止力」のための武器を持ち歩くことが可能であれば、
相手がやり返す可能性を完全に排除出来ない以上、安易に傷害事件・殺人事件を起こそうという気にはならないのではないだろうか。
お互いに「抑止力」として武器を持っているという状況であれば、衝動的な傷害事件・殺人事件を起こすようなことにはなりにくいはずである。
しかも計画的ではなく「衝動的」であるならば、武器を使わない暴力になるケースが多いはずである。
 そして、先ほども述べたように、バレなければ持ち歩くことも出来るし、傷害事件・殺人事件も防ぐことは出来ないのである。
であるならば、むしろ全員が武器を携帯した方が「抑止力」として効果を発揮するのではないかと思う。
 傷害事件・殺人事件を「計画的」に行うことができるのは、日本ではあくまで相手は武器を持っていないだろうという前提が成り立っているからという側面もあるのではないだろうか。
現状では多くの人は、武器を持って襲ってきた相手に対して「正当防衛」をすることはほぼ不可能である。
まずこれは相手が武器を持っていて、自分は武器を持っていない、という時点で勝敗はほぼ確定してしまっている。
勿論、武器があろうとなかろうと最終的には実力勝負であり、武器を持ったから身を守れるかといえばそうでもない。
しかしながら、武器の携帯を禁じることによって奪われている命も考えなければならないはずである。
しかも、武器を「偶然」持っているから、それを使って相手を脅そうだとか、殺そうなどと考えるものなのだろうか。
わざわざその場で臨機応変に武器を探して、「よし、これを使おう」と意気込むのだろうか。
そんな人であれば最初から武器を持っていそうだし、何もしない人は武器を持っていてもおそらく何もしないだろう。
「武器」を持っているから傷害事件・殺人事件が起こるというわけではないのである。
 結局現状では、完全犯罪を成し遂げなければ法的制裁は免れないのだから、
武器を持っていることが傷害事件の件数を増やす要因になるとは考えにくい。
「抑止力」としての武器を持つことは決して「悪い」ことではないのである。
 
 平和だという前提で武器を持たずに街へ出るという行為は、
現状ではかろうじてそれなりの治安が保たれているから大抵の場合は通用しているのだが、
今後もそれが通用するとは限らないし、現に通用しない場面も多くなってくるはずだ。
そのときには、これまで多くの日本人は「平和ボケ」していただけなのだという事実が浮かび上がってくるだろう。
 確かに「武器を持たない」ということ自体は素晴らしいものである。
それによって傷害事件・殺人事件が一切なくなるというのであれば、ほとんどの人は賛同するだろう。
周りの人が全員「武器を持っている」としたら、それは確かに恐ろしいことかもしれない。
しかしながら、誰が武器を持っているかわからない中で、自分が「武器を持っていない」というのも恐ろしいことなのである。
 何も「恐ろしい武器」を持てだとか、銃社会にしろということではない。
せめて「護身用」の武器を携帯することくらいは認めるべきではないのか、ということである。

続き

やっぱり武器を持ってもダメかもしれない(続・武器を持たずに街へ出る「平和ボケ」した日本人)